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背後から肩を掴まれ、靖は我に返った。
宵闇の中を、強烈な光が差していた。女児と靖の間に割り込んで、向こう側の光景が明るさに消失する。
「いけない、そっちへ行っちゃ」
振り返ると、古びた割烹着に身を包んだ老婆が、鋭い眼光でこちらを射抜いていた。
額から首筋、指先に至るまで肌の露出している部分にくまなく走った皺と血管が、痩せぎすの体を隆起させ操っているようだった。
なぜ見知らぬ老婆に邪魔されなくてはならないのか。もどかしかった。長い旅路の果てに、すぐそこで妻が待っている。行かなければ。
なぜ? 心配して駆けつけるほど妻を愛してはいないはずだった。「すぐ来て」と言われても放っておいたってよかった。けれど、どうしようもなく全身があちらを目指している。
老婆の手を振りほどくのは容易かった。向き直ると玄関前にはもう、妻に生き写しの女児も、若い義母もいない。ただ闇があった。
焦燥感に襲われる。また、逃してしまう。
何を? わからない。靖は見えない力に引き摺られるように飛び石を渡り、敷居を跨いだ。
ようやく到着した。長い道のりだった。死んだような屋敷の土間を、靴を脱ぎ捨てるのもそこそこに駆け上がった。
青いパーカーのフードが頬にまとわりついて不快だ。
どの部屋に向かえばよいかは不思議と知っていた。襖に手をかける。畳の間を抜け、続く襖を何枚も開け放っていく。
最後の一枚を勢いよく開いた。脱気された瓶の蓋がポンと音を立てるように、空間が向こう側と繋がった。
その瞬間、赤ん坊の産声が聞こえた。今まさに生まれた。
靖の記憶はそこで、別の回線に接続されたかのように、ぶつっと途絶えた。
あっ用済みなんだな、と意味も分からず直感した。
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