ひそやかな英雄

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「…………」 気が付いたら、見慣れた自宅アパートの部屋に寝転がっていた。 昨夜、突如として現れたトラックに轢かれて死んだと思っていたが、 あれは夢だったのだろうか。 額に冷たい汗を浮かべつつ、何となくテレビをつけた。 『4月1日、本日の天気は……』 天気予報士の言葉に俺は耳を疑った。 昨日が4月1日だったはずじゃないか? 聞き間違いか? 携帯端末で日付を確認するが、今日も……否、今日は4月1日らしい。 ということは、俺が4日1日だと思い込んでいた昨日の出来事は、 全部無かったことになっているのか。 確か昨日は、失業に伴う保険の変更手続きの為に役所に行って、 その後、彼女に呼び出されて喫茶店に行ったら別れ話を切り出されて、 職も彼女も失って呆然と歩いていたら、高級そうなリムジン車に轢かれそうになって…… その中に乗っていた金持ちそうなおっさんを見た時、 何もかもが虚しくなって、急激に死にたくなったのだ。 せめて、本当に死ぬ前にささやかな贅沢をしてやろうと思い、 なけなしの貯金をはたいて高級ステーキの店を訪れた。 その帰り道、いきなり突進してきたトラックに轢かれた…… そんな記憶がありありと思い起こされるのだが、現実に俺は今も生きている。 そして、4月1日の朝に再び立っている。 (何だこれ。どうなってるんだ???) 疑問を感じつつも、『まあ夢でも見たのだろう』と結論づけた。 そうして、退職に伴う手続きの為に役所に行こうとして──その足を止めた。 28という中途半端な年齢にして、俺は生きる気力を失っていた。 新卒でとある保険会社に入社したものの、理不尽なパワハラと詐欺のような営業にうんざりを通り越して、すっかり精神を病んでいたのだ。 どうせ後は死ぬだけなんだから、わざわざ役所に行って面倒な手続きなんかする必要も無いだろう。 俺は寝転がったまま、ほんやりとテレビを見続けた。 『A国とC国の睨み合いは続いており、いつ核兵器が使用されるか分からない  一触即発の状態が続いています。  もし、核兵器が使用されれば世界大戦は避けられない事態となり──』 相変わらず、ニュース番組というやつは気の滅入ることばかり報道している。 戦争がどうの、兵器がどうの、それに伴う物価高がどうの…… お陰で世間の空気も常に陰鬱としたものになっている。 これまでなら、うんざりした気持ちを抱えながら出勤していたが、 今の俺にとっては何もかもがどうでも良いことだった。 仕事はおろか、生きる気力ももう無いのだ。 せめて、なけなしの貯金を使って人生最後の日を楽しもう。 そう思って、俺はアパートを出た。 サウナに行き、気になっていた映画を見て、お洒落なカフェでコーヒーを飲み、 そして高級な寿司屋で人生初にして最後の特上寿司を堪能している……はずだった。 実際は、俺の隣で談笑する仲睦まじい夫婦のせいで惨めな思いをする羽目になった。 その夫婦の片割れである、黒縁眼鏡の小太りなおっさんに俺は見覚えがあった。 サウナでも、映画館でも、カフェでも、このおっさんに出くわしたのだ。 とは言え、隣の席に座ったとか、すれ違ったとか、その程度のことだったが。 それでも分かる。 このおっさんは人生に成功していて余裕のある暮らしをしているんだ、て。 この寿司を食い終わった後、死ぬしかない俺とは訳が違うんだ、て。 最後には虚しさを噛み締めて、俺は店を出た。 暗い夜道をトボトボと歩く。 すると、向かい側から見覚えのある顔が近付いてくるのが分かった。 あのおっさんだ。 5回目の再会となるおっさんとすれ違う──その時、 けたたましい轟音が響き、俺は強烈な光に包まれた。
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