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「ぼ、ぼく、本当はゴキブリなんだ!」
いきなり何を言い出すのだろう。確かに今までハッキリとは言われてなかったけれど、そんなの見た目で一発でわかる。
ぽかんと口を開けた私に何を思ったのか、ロクが縋るような目つきでこちらを見た。最近では、感情の読めない複眼でも、何を考えているのか大体読めてしまう。
「今まで言い出せなくてごめん。この星じゃゴキブリは嫌われ者って聞いて、それで……」
「ずっと黙ってた?」
「うん……」
まるで犬の尻尾のように、しゅん、と垂れ下がった触角に、ぷっと吹き出す。
「知ってたよ、最初から。ゴキブリだって」
「えっ?」
ロクの肩がビクッと跳ねた。どうやら、バレていないと思っていたらしい。
「……知っていたのに、ずっとそばにいてくれたの?」
「言ったでしょ。見た目がどんなだって、美味しさには変わらないって」
あえて初めて会った時のセリフを口に出すと、ロクは感極まったように顎を鳴らした。
「あ、ありがとう。あと、あと僕……」
他にも何か秘密があるのだろうか。首を傾げたその時、急スピードで走ってきた黒いバンが激しいブレーキ音を響かせてそばに横付けし、スライドしたドアの中から伸びてきた手に、無理矢理引き摺り込まれた。
「サチ!」
ロクの悲鳴が届いたが、口を押さえられているせいで返事は叶わなかった。
酷く揺れる後部座席の中で、深く帽子を被った拉致犯の顔を必死に見上げる。白昼堂々、人を攫うという荒技をやってのけた割に、拉致犯は二人きりのようだ。運転手が一人、そして私を引き込んだ奴が一人。
しかし、今までの人生を振り返ってみても、人から恨みを買う覚えはない。生まれてこの方、日陰に生える苔のようにひっそり生きてきたのに。
うーうーと獣のように唸る私に、拉致犯は嘲笑うようにフッと息を漏らした。
「……お久しぶりね」
その声でハッと気づいた。お向かいに住んでいた奥さんだ。ひどくやつれていたからわからなかった。それにしても、どうしてここに? 家族と共に田舎に移ったはずじゃなかったのか。いや、それ以前に、どうして私を拉致なんてするのか。
「何が何だかわからないって顔ね……」
凝視する私に、奥さんはギリっと唇を噛み締めた。その強さに乾いた皮膚が破れ、プツッと血の球が浮く。
「ふざけないでよ! あんな……あんな悍ましい化け物と幸せそうに! あいつらのせいで、秋人は……息子は……っ!」
その続きは言えないようだった。呆けたように見上げる私の頬に、奥さんの目からこぼれた雫がパタパタと落ちる。心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走り、身体中から体温が一斉に引いたような感覚がした。
どうして今まで考えつかなかったんだろう? 強制的に移住させられた人たちは、新しい世界から捨てられた人たちなのだということに。
その時、世界を揺るがすかと思うぐらいの轟音が鳴り響き、車が急停車した。
「サチ!」
ドアをこじ開けたロクが、私を優しく抱き抱えて外に出す。中の奥さんと運転手は頭から血を流して、ぴくりとも動かない。
車の前面は大きく凹み、黒と白が入り混じった煙が空に立ち上っている。説明されなくても、誰がやったのかすぐにわかった。ゴキブリの足の速さは折り紙つきだ。車に追いつくなんて、赤子の腕を捻るより容易いことだろう。
「ロク様! ご無事ですか?」
近くに止まった白いワゴン車から黒いスーツを着た昆虫人たちが大勢飛び出してきて、私たちと入れ替わるように車を取り囲んだ。その中にはキリトの姿もある。彼はロクに抱き抱えられた私にチラリと視線を向けると、周囲に指示を飛ばしながら、車の中の奥さんたちを引き摺り出しにかかった。とても星のトップがやる仕事じゃない。
それをぼんやりと眺めていると、私を地面に下ろしたロクが、視界を遮るように大きな体を縮めてこちらを覗き込んだ。
「サチ、大丈夫? 怪我は?」
幸いにも傷一つないけれど、今はそれどころではない。返答せず、じっと見つめていると、その視線に気づいたロクが気まずそうに目を逸らした。
「どうして、キリト様がここにいるの? ……他の黒スーツの人たちも、まるであなたを守るみたいに」
「……彼……キリトは、その……僕の側近で……つまり……」
「……あなたが本当のトップってこと?」
私の言葉に、ロクは観念したように項垂れた。
「……黙ってて、ごめんなさい」
さっき明かそうとした秘密はこれだったのだ。そして、奥さんが私を狙った理由も。デートの度に白いワゴン車が尾行してきたのは、こんな事態が起きることを想定していたのだろうか。
「あの……後でちゃんと説明するから……その……立てる?」
おずおずと差し出された手のひらに視線を落とす。人間とは違う、大きくて黒い手のひら。きっと一振りしただけで、私の体は容易く傷ついてしまうだろう。
それどころか、この手はこれから私たち人間を苦しめ続けるのかもしれない。
「……サチ?」
震える声が耳に届く。目の前のロクは、初めて会った時と同じく、逸れた子供のように見えた。
……そんなに不安げにしないでよ。何も言えなくなるじゃない。
答える代わりに、差し出された手のひらをギュッと握った。相変わらず女には慣れないらしい。じっとりと手汗を感じたけれど、不思議と不快には感じなかった。
運命の恋なんて馬鹿らしいと思ってる。シンデレラにはなれないし、なりたくもない。だけど今だけは、この手を決して離したくないと思ってしまった。
私の体温と、少し低めのロクの体温が混ざり合っていく。
じっと私を見つめる複眼は、まるでお姫様を見る王子様のように甘く、蕩けそうなほど優しかった。
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