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「ミサキ君、そこの薬品を取ってくれるかい? 赤いラベルのそれだ」
「はい、これですね」
「ありがとう」
滝本博士は助手から薬品を受け取ると、目の前の試験管に垂らした。
うす緑色の液体が管をつたう。
しばらくすると空気に触れたそれは無色透明になった。
「博士、そういえば研究内容を詳しく聞いていなかったのですが、それは何の薬ですか?」
助手のミサキは遅すぎる質問をした。
落ち着きがあって聡明な女性である。
滝本博士を敬愛しており、また信頼を寄せていたので、具体的な研究テーマも知らずに右腕となって働いていた。
「これは、そうだな……言わば惚れ薬のようなものだよ」
「惚れ薬?」
「でも邪な気持ちから研究しているものではないぞ。世の中には小さないさかいから大きな争いまで、人間同士のすれ違いが絶えない。僕はその原因は愛の不足にあると思うんだ」
「哲学的ですね。それとも詩人……?」
「もっとシンプルだよ。思いやりとか、他人に好意を抱くとか、その程度だよ。相手を憎むのではなく愛する。そうすれば争いなんて起こらないんだ」
「つまり平和のために研究なさってるんですね」
「そういうことだな。これを飲むと、目の前にいる人に好意を抱くようになるんだ。会えばケンカばかりしている兄弟も、離婚寸前の夫婦も、関係を修復できるようになるんだよ」
「すばらしい研究です! 私もそのお手伝いができて光栄ですよ」
ふたりは研究を続けた。
神経や思考、精神に作用する薬品のため、研究は遅々として進まない。
徹夜の日々が続く。
どうぞ、とミサキがお茶を差し入れた。
「少し休憩されたほうがいいと思いまして」
時刻は深夜二時。
このくらいになると作業の手が一時止まることを、ミサキは経験上分かっていた。
「ああ、ありがとう」
「大丈夫ですか? 最近は飲食も忘れて作業してますけど、あまり根をつめすぎるのは良くないのでは?」
「そうだな……うん。だがもう少しで完成しそうなんだ」
「うまくいけば個人間どころか、戦争を回避することもできるかもしれませんね」
ミサキの言葉に滝本は膝を打った。
「僕の狙いはそれなんだよ。皆が皆を愛するようになれば憎しみも争いもなくなる。訴訟も戦争も。そんな理想的な世の中にしたくてね」
夢を語るとき、彼の目は少年のように輝く。
彼女はその瞬間が好きだった。
「万が一があってはならないからね。薬品の調合は慎重にやらないと……」
休憩する暇も惜しいと言わんばかりに、滝本は差し入れられたお茶を一気に飲み干すと研究を再開した。
数日後。
ミサキは机上に並んだ試験管を眺めていた。
分量や色の異なる試液が二十本はある。
「どうかしたのかい?」
後ろで滝本が言う。
「あ、いえ。ずいぶんたくさんあるのでノートにまとめようかと……」
「それでも少ないくらいだよ。あと一歩というところで行き詰ってしまってね」
「やはり難しいんですね……」
「繊細な代物だからね。個人差も考慮しなければならないし」
滝本は給湯室で淹れたお茶をミサキに差し出した。
「退屈な作業を手伝わせてしまってすまないね」
「ありがとうございます」
試験管とにらめっこしていたミサキは、受け取ったカップを一旦テーブルに置いた。
「これをまとめたらいただきますね」
「あ、ああ」
滝本は落ち着きなく研究室内をうろついた。
必要もないのに試薬を手にとっては棚に戻し、意味もなく机の引き出しを開ける。
手近なノートをぱらぱらとめくる。
カレンダーに目をやる。
そんなことをしている間もミサキは熱心に研究過程をまとめていく。
その作業が一段落し、彼女はカップに口をつけた。
「…………」
滝本はその瞬間を見逃さなかった。
ふたりの目が合う。
「どうかしましたか?」
「あ、いや……ちょっとトイレに行ってくるよ」
額の汗を拭きながら彼はそそくさと室を出て行った。
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