不眠症と夢の話

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不眠症と夢の話

 哺乳類が夜に行動を始めたのは、敵から身を守るためだという。私達の祖先は、夜の闇に逃げ込んだのだ。見つからないように、傷つかないように。  だから私が、夜が好きなのも、夜になると目が冴えるのも、当然のことなんだよ。私達がネズミだった二億年前からそうなってるの。そうやって、進化してきたんだから。  そう私が言うと、時仁(ときひと)くんはそのどこか眠そうな目に呆れを一瞬だけ滲ましたけど、すぐにお医者さんの顔に戻って睡眠導入剤を処方した。 「半錠単位で出しておくから、まずは半錠だけ飲んでみて。もし眠れなかったらもう半分を服薬して、それ以上は飲まないように。あくまで薬は補助するものだから、少しずつ様子をみましょう」  私は「はあい」と返事をしたけど、いざ夜になると面倒になって、一錠分を一気に飲み込んだ。  ほんの小さなその錠剤は想定外の効き目を発揮した。ものの数十分後には脳がふわふわして、体に上手く指示を出せなくなった。体と空気の境目がぼんやりして、よろめきながら寝室へ。見慣れた六畳間がぐらりと揺れて、仕方なくベッドに倒れ込む。鈍くなった皮膚の感覚がシーツの冷たさを僅かに拾い上げた。  明かりを間接照明だけにして目覚まし時計に手を伸ばした時だった。私はかすんだ視界の端で、人影が間接照明を遮るのを、見た。  人影は体を折り曲げ、私の耳朶に顔を寄せる。 「こんばんは」  高くて特徴的な甘ったるい少年の声。私ははっとして目を見張った。  郵便配達員じみた出で立ちのその少年は、手袋に包まれた指先で帽子を持ち上げると丸っこい目を細めた。耳の上に羊のような角が生えている。 「夜分にごめんね。きみのために羊を数えに来たよ」  その声はあんまり心地よくて、私は思わずまた瞼が重たくなる。微睡みが思考を奪う。少年は眉尻を下げて可笑しそうにこっちを見つめている。胸の奥が軋む。私は、この感覚を知っている。  彼は自身を「羊使い」だと言った。絨毯の上に膝をついて、胸から上だけをベッドに乗り出し私の力の抜けた顔をにこにこ眺めている。高校生くらいだろうけど、笑うともっと幼い子どもにも見える。 「羊使い?」 「夜眠れない人に眠りを届けるために、羊を数えるんだよ」 「そりゃあすごい」  もうなんか、充分眠れそうだけど。  意識の朦朧としている私に羊使いは小首を傾げた。 「なんか眠そうじゃない? 夜眠れないって聞いてたのになあ」 「薬飲んだから」 「せっかく来たのに」  羊使いはいじけた様子で厚ぼったい唇を尖らせた。と思うとやっぱり笑って、組んだ手に顎を乗せて上目遣いに私を見つめる。 「取引しようよ。羊使いは、夢と引き替えに安眠をあげるんだ。眠れるようにしてあげるけどその代わり、きみは夢を見れなくなる。……って寝ちゃった? もー」  鼻先でぶんぶんと手を振られる気配がしたけれど、無視をして寝たふりを続ける。すると不意に静かになり、私は思わず薄く目を開けた。  羊使いは顔を両手で覆っていた。肩が少し震えている。そんなに傷つけてしまっただろうか。だって眠いものは仕方ないじゃない。 「ねえ」 「――ばあ!」  声を掛けようと口を開いた時だった。羊使いは手をぱっと開いて顔からどけた。ウインクしたひょっとこみたいな顔を作ってぴくりとも動かなくなる。 「なに、急に」 「にらめっこ」  口をすぼめているせいで言い辛そうな羊使いに、私は唇を噛みしめて、それから喉の奥で僅かに笑った。 「あ、律の負けだね」  羊使いは元の綺麗な顔に戻って、にんまりと口角を上げる。  勝手に始まったにらめっこに負けた私はまた目を閉じた。 「えー、寝ちゃうの?」  寝かせるために来たなら、私が寝ても問題ないんじゃないのか。彼が眠らせなければ意味がないのだろうか。  夢と引き替えに安眠をくれる。私の夢って、どんなのだっけ。そもそも羊使いが言う夢って、レム睡眠時に脳が記憶を整理する際の夢なのか、それとも。 「いいよ」 「え?」 「取引する」 「流石決断力があるなあ律は」 「そりゃどうも」  では早速数えさせて頂きます。得意気な口調で羊使いは言って、咳払いを一つ。 「羊が一匹」  瞬間、小さく羊の鳴き声がして、私は驚いて目を開いた。  胸の上をもこもこの羊が飛んでいる。手の平に乗るくらいの小さな羊だ。  私が呆気にとられている間にも次々と羊使いの声が降ってきて、それに合わせてどこからか現れた羊が私の体を飛び越えていく。飛び終えた羊たちは私のベッドを歩き回ったり、座り込んだりと思い思いに行動している。  十匹目に差し掛かった辺りで、私はふと瞼を下ろして耳を澄ませた。メエメエうるさい羊たちの鳴き声の奥で、彼の声が響いている。  羊が十二匹。羊が十三匹。羊がじゅう……よん匹。  たまに崩れるそのリズムを聞きながら、私はふわふわした意識をそっと手放した。
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