ケイヤク

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 バーでの告白がちらりと頭をよぎり、心臓がばくばく暴れ出す。 (違う違う! あれはただ酔っ払って零しただけのなんてことない戯れ言だから! 勘違いするな、自分!) 「……桜。話があるんだ」  波音は真剣な眼差しで、私を見下ろしている。  そして、言った。 「俺に雇われる気、ない?」と。 「雇われる……?」  話が見えず、眉を寄せる。すると、波音はにこっと笑ってリビングへ戻り、一冊の本を私に差し出した。  台本のようだ。  表紙には、『失恋カレシ』とある。 「実は俺ね、次の舞台が決まってるんだ。失恋カレシっていう女性向け恋愛シミュレーションアプリを元にした舞台なんだけど」 「失恋カレシ?」 「知ってる?」  いや、聞いたことない。  首を横に振る。 「とある会社に所属する男性が、失恋したヒロインを失恋カレシとして慰めて甘やかすの。それで、ヒロインを立ち直らせて新しい恋を見つけてあげるっていうアプリなんだけど」  随分と突飛な設定だけど、女心は掴んでいる気がする。  2次元カレシというものの類いだろうか。 「でも、もし本当にそんなものがあったら、やってみたいかも」 (この気持ちが少しでも楽になるなら)  なんて、笑いながら冗談混じりに答えると、  すると波音は「なら、俺にやらせてよ。桜の失恋カレシ」と、言った。  思考が止まる。 「……え?」 (……波音が私の失恋カレシ? いや……いやいやいや!) 「な、なに言ってるの! いきなり!」 「だって失恋カレシだなんて言われても、非現実的すぎて全然セリフが身体に染み込んでいかないんだよね。実際にアプリをやってみたりもしたんだけど、やっぱりいまいち掴めなくて。だからお願い! 桜の失恋カレシ、させてよ。桜の反応とかときめき具合次第では役が掴める気がするんだ」  波音は顔の前でパンッと手を合わせた。 「お願い!」 「う……でも、それってそもそもアプリなんでしょ? 私がアプリで遊んでみるならまだしも、波音がやったらリアルな……」  言い終わる前に、波音が「そこは大丈夫!」と口を挟む。 「2.5次元舞台は原作ありきではあるけれど、あくまでリアルが売りだから!」 「それはそうかもしれないけど……でも私、今ニートだし、早く仕事を探さないとで余裕がないというのが現状で……」  そう。私は今ニートだ。遊んでいる暇なんてない。 (……波音には悪いけど、まずは社会人として自分の生活を安定させないことには) 「もちろん、桜には仕事としてやってもらうからきっちりお給料は出すよ」 「えっ?」 「それから、公式に俺のマネージャーになってもらうことになるので社宅つき! どう? 再就職先として結構待遇いいでしょ?」  これでもかというくらいの笑顔を向けられ、言葉に詰まる。  ヤバい、なにその条件。魅力的過ぎる。 「で、でも波音の一任で私を社員になんて……」  いくら売れっ子でも、そこまでの権限はないだろう。  と、思っていると、波音がにこりと笑った。  ……嫌な予感。 「できるよ。だって俺、社長だもん」 「へ!?」  うっかり目が飛び出そうになる。  波音はポケットから名刺入れを出すと、すっと私に見せた。 「Light Jewelry代表取締役の絢瀬波音です」 「うそ!? 本当に社長なの!? これ小道具じゃなくて!?」  波音ががくっと崩れる。 「小道具って……本物だよ。舞台俳優はフリーでやる人も多いんだよ。俺も最初は事務所に入ってたんだけど、昨年フリーになって、会社を設立したの。今は数人の舞台俳優が所属してる。ちなみに七木もうちの俳優。沙羅も今の事務所と契約が切れたらうちに来る予定だよ」 「そ、そうだったんだ……」 (知らなかった……) 「というわけでどうかな?」  波音がニコニコして私を見てくる。 「でも、私芸能界とか全然分からないし……」 「桜にはマネジメント業務関係は頼まないから大丈夫だよ。桜は俺の演技の練習相手になってくれればそれでいい。あとはそうだな……仕事で長く家を開けたりもするから、その間の掃除とか、あと家事とかもやってもらえたら嬉しい」 「そんなことでいいの?」  一人暮らしして長いし、家事なら得意だ。 (でも、そこまで波音に頼りきりになるのも申し訳ない気が……) 「もちろん、桜にやりたいことがあるなら、再就職先を探すのは自由だよ。あくまで次の仕事が決まるまでっていう契約にするなら、不安はなくなるんじゃない?」 「…………」  なんてことを言うのだ、この悪魔は。  そんなことを言われたら……。 「どうかな?」  ずいっと顔を寄せられる。 「もっとほかに欲しい待遇とかある? なんでもいいよ、言って?」 「な、ないよ! そんな、滅相もない、けど……」 「桜、お願い。俺には桜しかいないんだ」  まるで、恋焦がれるような甘い声で言われたら。 「う……わかった。やり……ます……」  私、陥落。 (負けた……)  白旗を上げた気分で項垂れると、波音は嬉しそうに笑った。 「やった! それじゃあこれからよろしくね、桜」 「う、うん……」  こうして、私は失恋カレシのヒロイン役兼家政婦というちょっと変わった再就職を果たしたのだった。
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