同棲

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 そして、同棲一日目。  朝五時半に起きて、さっそく仕事を始める。  昨日仕事について尋ねた結果、しばらくは家事をしてくれればいいということだったので、朝ごはんを用意しよう。  無難に和食でいいだろうか。  わかめとお揚げの味噌汁、冷奴、玉子焼き、モロヘイヤがあるからお浸しと……焼き魚、白米、あたりか。  冷蔵庫を確認して献立を立て直しながらさっそく下ごしらえを始めていると、その物音で目が覚めてしまったのか、波音が起きてきた。 「……桜、おはよ。早いね」  波音はぼうっとした顔のまま、キッチンに入ってくる。顔がまだぽやぽやしている。  そういえば、波音は寝起きがものすごく悪いって高校時代によくからかわれていたっけ。 「おはよう、波音。ごめんね、起こしちゃった?」  時刻は六時前。波音が起きるにはかなり早い時間に思える。 (今日はたしか、午前中は仕事ないって言ってたし……)  「ううん。物音がして、桜が起きてる気配がしたから、会いたくなって起きた」 「ふぇ……」  不意打ちにもほどがある。  朝からなんてことを言うんだ。 「……ときめいた?」  ……いてない、断じて。 「演技ってもしかして、もう始まってるの?」 「そりゃそうだよ」  さっきまで寝ぼけてる様子だったのに。 「あーぁ。あんな男なんて早く忘れて、俺のことだけで頭がいっぱいになればいいのに。そうだ。毎朝ハグする? 物理的に距離を縮めれば……」 「わ、わざとやってるでしょ?」 「ははっ。だって、失恋したヒロインを甘やかすのが俺の仕事だからね。仕事はちゃんとやらないと」 「あ、朝からはダメだよ……」  なにせ、心臓にものすごく悪い。 「時間なんて関係ないよ。契約は二十四時間だから」 (ぐ……)  たしかに、契約書に勤務時間は原則一緒にいる時間すべてとある。  やっちまったかもしれない。 「というわけで桜、おはようのハグしよ?」  波音はふにゃっとした笑顔で私に近付くと、手を広げてむぎゅっと抱き締めてきた。 「ちょっ……だから、朝だって!」 「んん~聞こえないなぁ。まだ頭が起きてないみたい」 「都合が良すぎる!」 「あ、そうだ桜」 「み、耳元で喋らないでってば!」  ムズムズする。というか、どきどきが限界突破しそう。つまり死にそう。  くすっとイタズラな笑い声が耳に触れる。 「桜、今日もめちゃくちゃ可愛いよ」  とびっきり甘い声が耳に響いたかと思うと、そのまま耳たぶに触れるだけのキスをされた。 「きゃっ!? ちょ、キスは禁止じゃ……」  耳を押さえて抗議をすると、 「あちらをご覧下さい」と、波音が張り紙を示した。  視線を向けると、そこにあるのは契約書だった。様々な契約事項が書かれている。 『唇へのキスは禁止』  ほら、やっぱりちゃんと書いてある。 「唇へのキスは禁止、とは書いたけどほかの場所へのキスが禁止とは書いてないよ? だからこれは契約の範囲内」 「そ、そんなのズルだよ!」 「……いやだった?」  しょんぼりした顔で訊ねられ、ぐ、と言葉につまる。 「いや、えっと……」   いやなわけじゃないけれど、でも、波音だし。それにものすごく恥ずかしいし、困るし、これは付き合ってもいない男女の正しい関係ではないと思う……のだ。  だが、そう素直に言おうとしても、どうしてか言えない。 「答えないってことは、いやじゃないってことだよね」 「ち、違っ……!」  チュ。  今度は額にキスされる。ボンッと頭が爆発した。 「もうっ! 波音!! いい加減にして!」  堪らず叫ぶと、波音はイタズラな笑みを浮かべて、 「ははっ、着替えてきまーす」と自室へ逃げていった。  白米、わかめとお揚げの味噌汁、玉子焼き、モロヘイヤと梅の和え物、わかめとベーコンの炒め物。  できあがった朝食を前に、波音がきらきらと瞳を輝かせる。 「これ、桜が作ったの!?」 「うん。簡単なもので悪いんだけど……」  波音がモロヘイヤの和え物をぱくりと食べる。  どきどき。 「桜……」 「ど、どう?」 「このネバネバめっちゃ美味い! どうやって作るの!?」 「これは茹でたモロヘイヤに梅の果肉と鰹節を混ぜただけだよ」 「桜天才~!」 「大袈裟だよ……」  でも、嬉しい。 「桜も食べよう?」 「私はいいよ。お腹減ってないし」 「ダメだよ。ひとりで食べてもつまんない。少しだけでもいいから食べよう?」 「…………わかった。それじゃあ少しだけ」  正直、本当にお腹は減っていないけれど、仕方なく食べることにする。  朝食を取りながら、波音は今日の仕事の話だとか、この前私が見た舞台の裏話だとか、仲がいい七木さんとの話だとかをたくさんしてくれた。 (こんなに楽しい朝食って、いつぶりだろう)  真宙くんと付き合っているときはもちろん楽しかったし、好きな人に手料理を食べてもらえることも嬉しかった。  でも、真宙くんは出されたものを黙って食べるだけで、美味しいも不味いも言ってくれなかった。  まさにカレシの鏡のような反応。 (これが失恋カレシか……おそるべし、波音の演技力)  あやうく絆されちゃうところだった。  朝食が済むと波音が出かける準備を始める。 「今日は稽古だから、帰りは八時くらいになるよ。晩御飯も一緒に食べたいんだけど用意してくれる?」  「もちろん」 「やった! じゃあ楽しみにしてるね」  玄関の扉に手をかける波音に、私は恋人同士なら当たり前のセリフをかける。 「行ってらっしゃい、波音」  波音が驚いたように振り向く。  「どうしたの?」 「……あ、いや。行ってきます」  波音が笑顔で出ていく。  パタン、と扉が閉まる。  さて。 (夜ご飯はなににしようかな……波音のお弁当って、いつもなにが入ってたっけ……)  私は鼻歌を歌いながら、さっそく夜の献立を考えるのだった。
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