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決して見ることのできない《彼女》の声が聴こえたのは、学校帰りの夕方だった。
『こんにちは』
最初は、果たしていったい誰に話しかけられたのかと思った。僕のまわりに人はいない。
徐々に長くなる影だけが足元から伸びていた。
単なる幻聴か、と思って僕は首を振る。中学に入ってもまともに友達をつくれなかった僕は、一日中誰とも話さないでいるのも決してめずらしくなかった。
『見て、夕焼けが綺麗だよ』
僕のそばで、誰かがもう一度言う。
近くでささやきかけるような、透きとおった優しい声。僕はもう一度まわりを見まわした。やはり、誰の姿もない。
「君は誰なの?」
姿が見えないのに、不思議と怖くはなかった。それは《彼女》の声が、とても慕わしく寂
しげだったからだ。こんなふうに話しかけてくれる人は、両親をのぞいて誰もいなかった。そして大体の子供がそうであるように、僕はクラスの陰湿なイジメを親に隠していた。
『名前はないの。忘れちゃった』
風のような声がする。
「なんで僕に話しかけるの」
なるべく小さな声で僕はささやいた。そばを同じ中学と思われる生徒が歩いていて、気づかれないか不安だったからだ。そんな心配をよそに《彼女》は、
『君と同じだったから』と続けて言った。
「僕と?」
『そう』
それがどういう意味かは分からない。
その声は僕にしか聴こえない種類のものであるらしく、通行人に気づかれる様子はなかった。
『ねえ、私に名前をつけてよ。どんなものでもかまわないから』
《彼女》は歌うように僕に話しかけてくる。その声がくすぐったく耳をかすめていくようで、そのことに困惑しながらも、同じくらい嬉しさが込みあげた。ずっと聴いていたいと思ってしまう声。
僕は空を見あげる。彼女が言った通り、とても綺麗な夕暮れが広がっていた。雲の端々は
黄金色に染まり、羽のように重なった連なりは茜色になって遠くまで伸びていた。
「じゃあ、ソラって名前はどう?」
僕が思いつきでそう言うと、《彼女》の嬉しそうに笑う声がした。
『ありがとう』
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