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天秤の片方が重過ぎない?
正式に私の婚約者になったカール王子は、豹変した。
それ迄は、魔力も隠し、虫も殺さない顔をして、ニコニコしているばかりだったのに、せっせと暴力に勤しむようになったのだ。
初めはどこから連れてきたのか、やけに腕の立つチンピラを子飼いにして、城下で悪事を働いていた犯罪集団を壊滅させた。
またそこから引き抜いたゴロツキを使って、今度は地方の人身売買集団を叩いた。
しばらく似たような暴力沙汰に励んでいたようだが、結婚してから手を煩わせたくない、などと戯言を言っては、どう関係しているのか分からないような商家を叩いたり、貴族のコミュニティに顔を出してはうしろ暗そうな者を脅したり唆したりしていたようだ。
誕生日の騒ぎ以来、心配のあまり、どうにか婚約解消をと奔走していた父だったが、この頃には頻繁に宰相の執務室を訪れるカール王子と、悪い顔をしてコソコソ話をするようになっていた。
女学院の寮に入ってからは直接様子を聞くことは無かったが、その間にも悪名と紙一重な活躍を続けていたようだった。
私が第二王子の婚約者と周知されるようになってからも、奇行は続いた。
私が行儀見習で通っていた女学院から――恐らくカール王子をつなぐ鎖の役目として――王立の貴族の為の学園に転入してから、皮肉にも奇行は更にエスカレートした。
私が転入してきてからは、それまで畏怖の対象だったカール王子に対するにイメージは、転がるように地に落ちた。
付けられた影の渾名は
「テレジアのコバンザメ」
「テレジアの狂犬」
「肩書き詐欺」
「初恋の奴隷」
「無駄美形」
「力と魔法の無駄遣い」
「立板に毒」
など、愚かしいこと枚挙に暇がない。
私が絡むとカール王子の奇行は振り幅が大きくなる事は、先に入学したアロイス王子の布教のおかげで学内に深く浸透していた。
その為、私とカール王子に関するあれこれは、好奇の目で見られる事はあったが、基本的には触らぬ神に祟りなしと、放置されたのだった。
もちろんそのような事は学外に漏れる事はない。
カール王子の醜聞を学外に漏らせば、家が没落するという噂が出回ったせいだ。
限りなく真実に近い噂のせいで、カール王子絡みの事を口にする者は学内にいなくなった。
腫れ物に触るように、しかし貴族ならではの穏やかな雰囲気で、学園生活が続いていた。
カール王子という防壁は、恐怖とともに、かくも堅固な檻として生徒たちを支配したのだ。
皮肉にも、国の中枢である貴族たちが通う学園で、綿密にフィルターにかけられた英雄譚だけが、学園外に知らされるようになって、国の守護を担う第二王子として、カール王子の株は上がっていった。
――余談ではあるが、カール王子の狂言に巻き込まれかけたアロイス王子は、交換留学で出会った隣国の姫と婚約を取り付ける事に成功したようで、幸せそうだ。謀に見合う結果を持ち帰ったアロイス王子に父様も満足そうだった。
私が学園に入ってから、カール王子の奇行は遂に国境を越えるようになっていった。
あれは暑い夏の日の事。
「やぁ、テレジア、喉が渇いただろ。果実水があるよ」
サロンの隣の休憩室で、私は暑さを凌いでいた。
貴族や豪商の子女が多く通う学園は、社交の場として相応しい造りになっている。
よく冷えた果実水を手に、ご機嫌にカール王子がやってきた。
「ありがとう」
差し出されたグラスを受け取ろうと手を伸ばしたが、グラスは再びカール王子の手元に戻っていった。
とびきり嫌な予感がする。
「ねえ、テレジア。僕、これを直接その唇に注ぎたいのだけれど?」
「え?」
耳を疑うが、カール王子は常に悪魔的に本気だ。
「……僕の唇から」
口移しで飲ませたいとのご所望だ。
「何を戯けたことを仰っているの? 隣はサロンよ」
いつ誰が入ってくるとも知れない場所で痴態を演じたくはない。
悲しい事に、この展開はここ数年で恒例になっていた。
いや、よく考えれば八歳の誕生日から同じようにやり込められているような気がする。
すると、あらぬ方角を見ながらカール王子のとんでもない告白が始まった。
「ねえ、テレジア、僕の見立てではね……放置しておけば、もうすぐトーチハイランドで農民が蜂起する」
少し憂いを帯びた声が低く響く。
「高い税率と凶作のせいだね。そうだねぇ、場所は我が国の国境付近の可能性が高い」
そう。
私はこの展開を知っている。
「軍がやって来てすぐに鎮圧するけど、蜂起した農民は処刑されるね。蜂起自体はすぐ収まるけど、稼ぎ頭だったり、家長だったりする者達が処刑されたら、残された者達はやっぱり飢えるね」
カール王子は、いつの間にか私の唇をじっと見ている。
「国境を隔てて我が国の豊かさを眺めているだけの飢えた民は、どうするとおもう?」
あまりの内容に、血の気が引いていく。
隣国の事とはいえ、沢山の人間の命に関わる事が天秤の片翼に乗せられた。
「カール、それ、誰かに話した?」
深刻な話過ぎて、つい昔のように敬称すら忘れてしまうが、そんなこと構っていられなかった。
「今、テレジアに」
カール王子はそれはそれは綺麗に笑った。
カール王子は憶測で話はしない。
蜂起は確実に起きる事なのだろう。
「我が国に被害が出ても、まぁ、村の蓄えを略奪されたってくらいの被害だとは思うから、誰かが気がついても――動くかなぁ?」
父ですら動くかどうか分からない他国の反乱の種。
まだ起きた訳でもないそれと、口付けを天秤にかけろというのだ。
返答によっては人が死ぬ。
「それ、カールなら、どうにか出来るの?」
出来るのだろう、だからこうやって話題にあがっているのだ。
「……もちろん。僕にやる気があればね」
いつもそうだ。
カール王子は私が選ぶのを待っている。
「カール王子、私……あの……の、喉が渇いたわ」
覚悟して、グラスを持つ腕に触れると「僕が飲ませてあげようか?」と耳元で囁かれる。
果実水を口に含むと、これ以上無いくらいに密着して顔を近づけてくる。
汗の匂いも嗅がれているに違いない。
頭を支えて体に巻き付く腕は、暑苦しいったらない。
昔は小柄だったのに、十を過ぎた頃からぐんぐん背が伸びて、今ではすっぽりとその腕の中に閉じ込められてしまう。
最近は軍にも出入りしているようで、制服の下に隠した筋肉については言及すべきかどうか。
いよいよ近づいた唇が私の唇を覆う。
カール王子の嗅ぎ慣れた体臭は、うっとりと深く吸い込みたいような、なんとも抗い難い気持ちにさせるから苦手だ。
カール王子は愛しそうに、乞うように私に触れる。
愛されることが女性の幸せだなんて言うけれど、カール王子の愛に対して、私は何を差し出したら見合うのかと途方に暮れる。
口付けされても強情に閉じたまだった唇を指でゆっくりと割開かれ、とろりと果実水を口移しに流し込まれる背徳感といったら……。
こくんと飲み込んだのを聞いて、カール王子は次の一口を口に含む。
ああ、この人はこんな些細な事で隣国まで足を伸ばして、蜂起を止めてしまうんだ。
自国の利にもならないのに。
私が願ったから……なんていう、つまらない理由で。
――なんて愚かな人。
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