02-ご注文はお決まりですか

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02-ご注文はお決まりですか

 なるほど、と言ったきり、田上は腕組みして難しい顔をし、渡貫は懺悔するように膝の上で手を組んだ。事務員の通称〝マツ〟こと松田花もまた、パーティションを挟んだ向こう、スチール机で肘を突き、頬に手を添え目を伏せた。  一同しばらく沈痛な面持ちで静止画のように固まっていたが、鶴の一言ならぬマツの一声でハッとしたように顔を上げる。 「うちの探偵事務所のモットーは、強きをくじき弱きを助く、ですよ」 「マツさん……」  田上は参ったな、と顎を撫でて思案する。 「やっぱり難しいですかね……」  渡貫はそう言うと、また涙を浮かべる。涙腺がバカになっているのか、もともと涙脆い性質なのか、成人男性とは思えないほど不安定な心情が窺える。  田上は不覚にも庇護欲を掻き立てられそうになり、過労、睡眠不足で正常な判断が危うい今、体裁を整えるべく自身の内頬を噛んで正気を留めた。そうしないといけない己が不甲斐ない。が、仕事上で出会った人間にいちいちそんな感情を持っていたら、まったく仕事にならない。人情は忘れてはならないが、慈善事業ではないのだ。 「……難しいとは思います。ですが、渡貫さんの希望としては〝穏便にお別れしたい〟……そうですよね?」  田上にそう問われ、渡貫は握りしめていたティッシュで涙を拭い頷く。 「交際をすることで、僕自身誰にどう見られても、何を言われても構わないですが、ひとの家庭を壊してまで貫きたいものではありません」  決意の硬い表情を見て田上は振り返り、マツに目配せする。それだけで察したマツは、いつものようにスチール机の引き出しから、用紙を取り出し田上に手渡した。 「渡貫さん、こちらが誓約書になります。内容をよく読んで、納得していただけたら名前、住所、連絡の取れる電話番号、印鑑を捺印してお渡しください」  テーブルに滑らせ、誓約書と書かれた用紙を渡貫の前に差し出す。 「念の為、どういった内容が記載されているか簡単に説明しますね」  田上はひとつひとつ内容を噛み砕いて説明し、都度、渡貫の表情を確かめる。  誓約書は基本的に依頼主を守る為のものであるが、何かトラブルがあった際、請負主、『旭探偵事務所』を守る為にも必要なのだ。  依頼された内容を依頼者に納品し、万が一犯罪行為などに使用されれば、探偵事務所の責任は大きい。禁止事項として盛り込み、誓約書に署名捺印させることによって抑止力になる。そして当事務所は犯罪とは関わりのないことの証明にもなる。 「……以上が誓約書の説明になります。今から具体的な調査内容と、金額を計算して契約書を作成しますので、内容にご納得いただければ必要事項を記載してください。期限は一週間設けます。それまでに気が変わったり必要なくなったのであれば、お渡しした名刺の電話番号へご連絡ください」 「……えっ?」  淡々と告げる田上に相槌を打っていた渡貫が、驚いて声を上げる。 「今から契約して、とかじゃなく?」  不思議そうに尋ねる渡貫に、田上はふっと表情をやわらげた。 「うちの事務所の名前の由来なんですが、『旭』には日が昇る、朝日のように明るく、から来てるんですよ。ご依頼者の方がうちに来るときは、何かトラブルがあって来る。でも、すべて終わってここから出て行くときは、明るい笑顔を見てお見送りしたいんです。探偵事務所に訪れる八割くらいは人間関係のトラブルを抱えているので、疲弊しきって頭が上手く働かないときに、その場の勢いで契約して後悔する……なんて事にならないよう、せめて旭では仕事を依頼するしないに関わらず、本当に後悔のない選択かを考える時間を作ろう、……というのが先代の遺言なんです」 「先代はご存命です」  書類をテキパキ用意していたマツがすかさず訂正する。が、田上は腕を組みつつ『似たようなもんだろ』と悪態を吐く。しかし客前ということもあり、咳払いをし、ふたたび渡貫に視線を合わせ居住まいを正した。 「失礼しました。───その先代のポリシーは私も変える気はないので、渡貫さんにも真剣に考えて欲しいんです。真実を知ること、未来を変えることを本当に望んでいるのかを」  じっと黙って聞いていた渡貫は、はい、と小さく答えると、冷茶の残りを飲み干した。  書類の準備が整いマツから受け取ると、渡貫は冷茶の礼を告げ、席を立つ。マツが世間話をしながら見送るために扉を大きく開いて外へ出ると、渡貫は恐縮しながら頭を下げて旭探偵事務所を後にした。  見送りに出ていたマツが室内に戻るなり、田上は「マツさん、どう思う?」と訊ねる。マツはほんの少し前に渡貫が出て行った扉を振り返り、ゆっくり視線を戻す。そして、田上の向かい側のソファに腰を下ろすと大きく息を吐いた。 「そうですねぇ。この案件はお受けしない方が旭としては良いんでしょうけど……。助けを求めるなら手を差し伸べるのも『旭』なんですよねぇ。第一、日向さん一人で解決できるようには思えませんし」 「やっぱそう思う?」 「そりゃそうですよ。相手があの〝鴻之池〟ですよ。万が一にも拗れたら、日向さんは一溜りもないでしょうね。それにご子息が襲ったこと、鴻之池は知らないんでしょ? もし知ったとき、ご子息の方を庇うとも限らないです。ご子息は、家庭を壊されて怒りを日向さんにぶつけるくらいなので、日向さんに襲われたと嘘をつく可能性もありますよ」 「どうだろうな……。でも知ってる可能性はある。息子は行動力の塊みたいだし、当然親である鴻之池にも怒りをぶつけてると思う。鴻之池は……、敢えて日向の出方を探っているのかもな」 「探っているって……。まさか、別れを選んだら社会的制裁とかですか? でも、無いとも言えないですね」 「相手、金も権力も持ってるからなあ」 「いっそのこと、新しい恋人でも出来れば諦めるのかしら。誠一郎さん、もう何年も恋人居ないでしょ? 以前も彼氏役したことありますし、どうです?」 「いやだよ。そんなことしたら可愛さ余って憎さ百倍大炎上で(うち)が無くなる。離婚してまで繋ぎ止めたい相手に、変な虫が付いてたら叩き潰すだろ?」 「まあ、金も権力もありますしねえ」  吹けば飛ぶほどではないが、儲かっているとも言えない室内を見渡し、マツが肩を落とす。  田上は目を閉じ腕を組み、眉間に皺を寄せて今のやり取りを踏まえつつ考えてみるが、どうシミュレーションしてもカオスである。  さきほど渡貫から詳細に説明された、人物像や関係性を抜きにしても、田上の受けた衝撃は過去取り扱ってきた依頼の中で一番大きい。衝撃のあまり気を失うかと思ったほどだ。むしろそのまま気を失って無かったことにしたいとさえ思う。  ゆっくり目蓋を開くと、向かいに座るマツがどうするんだとばかりにじっと見つめて田上の答えを待っていた。長いため息が出る。  マツは旭での勤務歴は田上より長く、人を見る目も長けている。頼り甲斐もあるマツに無理をきいてもらう事もあるため、頭が上がらない人物なのだ。 「分かったよ。依頼が来たら請けるよ。でも頭回んねぇし、一旦仮眠させて……」  田上は言うなりのろのろと立ち上がり、事務所奥の仮眠室へ向かった。 「二時間後にはご予約の方が来られますからね」  マツがそう田上の背中に声を投げると、仮眠室に入る間際、ひらひらと片手を上げて了承の合図を送った。  気持ちを切り替え、テーブルのグラスなどを片付けながらマツは席を立つ。午後三時以降の来客には、飲み物の他にお茶請けとして、マツの手作り菓子を出している。マツの趣味と田上の福利厚生、そのついでに来客用に取り分けて、マツと田上と来客の皆喜んでいる、不思議な習慣である。 「今日は何にしようかしら」  マツはグラスを洗いつつ、日向のことに思いを馳せる。  二十代半ばにしては少し頼りないところもあるが、真っ直ぐで、誠実な青年だった。  マツは心の中で、彼の憂いが無くなりますように、と願う。  そして、旭が関わるなら、最後は笑顔で見送りたい。
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