69.一切の同情はなかった

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69.一切の同情はなかった

 遠慮なく口の端に入れた刃が横に引かれた。周囲は殿方ばかりだが、咄嗟に目を逸らした者は何人か現れる。しかし令嬢や夫人がほぼいないため、悲鳴は上がらなかった。痛みに叫んだライモンドの声が一番うるさい。  切ったと言っても、口の端をやや掠めた程度だ。血は流れたけれど、顔をぶつけた鼻血の方が多いくらい。大したケガではなかった。本人は殺されると大騒ぎしているが、冷静になった貴族達からは「呆れた」と呟きが漏れる。  彼らの自白はすでに耳にしているようで、断罪の場で見苦しく足掻く姿に幻滅したらしい。仮にも、これが王位継承権二位だったのだ。今回の騒動で王太子が失脚したら、ライモンドが王になる……そう考えたら、無理だと感じたのだろう。 「流し込め」  フェルナン卿の容赦ない命令に、白ワインが注がれた。飲み込まず外へ流そうと画策するライモンドの喉に、血の付いた短剣が触れる。 「そんなに嫌なら、喉を裂いて流し込んでもいいんだぞ?」  いっそ優しく聞こえるほど、穏やかな口調と笑みでフェルナン卿が迫る。ごくりと……喉は一度動いたら止まらなかった。触れた短剣の刃が肌を傷つけるが、誰も同情などしない。最後の一口まで、騎士達はきっちり流した。  これが私に対して行われたのね。覚えていないことが幸いだわ。これほど酷い目に遭った記憶でも、私の一部なのよ。そう思えば、奪われた気がして腹立たしい。捨てるのと、奪われるのでは意味がまったく違った。  げほげほと咳き込む姿に、同情する貴族はいない。目の前で見たことで、彼らは理解したのだ。これを……権力と体力のある彼らが、抵抗する力のない私に対して実行したのだと。本当の意味で実感した。記憶のない私も同じだけれど、外から見たらこんな酷い状態だったなんて。  理性のある人のすることではないわ。たとえ王太子の命令であっても、断るべきだった。王家の名フェリノスを受け継ぐ立場ならなおさら。 「縛り上げろ、それから吐かせるなよ」 「はっ!」  声を揃えて敬礼する騎士達は、ライモンドが吐き戻さないよう顎を固定する。無理やり上を向かせ、抵抗を物理的に封じた。  隣のカストはガタガタと大きく震え、セルジョに至っては失禁する有様だった。記憶はないけれど、私だって失禁はしていないはずよ。そんなに怖いくせに、どうして無力な私に対して行えたのか。彼らの想像力の欠如と頭の悪さに、溜め息が漏れた。 「時間は限られています。次に行きましょう」  フェルナン卿は、怯える姿に同情を見せなかった。それどころか、家畜を処理するように淡々と動く。もしかして、王太子に命じられた彼らも、こんな感じだったの? 相手を人と思わず、ただ命令に従ったのかしら。 「アリーチェ、誤解するでないぞ。フェルナンは戦場の最前線にいた男だ。残酷な方法で処刑される味方を見送ったことも、生き残れない仲間の介錯をしたこともある」  クラリーチェ様はそこで言葉を詰まらせた。おそらく、伯母様も似たような経験をなさったのだわ。そう察して、膝の上の手を握った。視線を合わせる彼女に、首を横に振る。それ以上の説明は不要です、と示した。 「素直に口を開けた方が楽です」  カストも歯を食いしばり抵抗した。同じように口を無理やり開かせるのかと思ったけれど、彼は別の方法を取った。手にした短剣の血を丁寧に拭って鞘に戻し、ぐっと拳を握る。そのまま躊躇せず、勢いよく顔を殴った。
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