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それが、先週偶然にも再会したのだ。
「五月!」
取引先に行った帰り、駅のホームでぼんやり電車を待っていると、声を掛けられた。
「早瀬?」
「久しぶりじゃん、仕事帰り?」
早瀬は長袖のシャツを腕まくりして、スーツの上着を手にかけてそこにいた。
すっかり社会人だった。
「本当に久しぶりだ。元気にしてたか?」
「うん、そっちは?」
「まあ、ぼちぼちかな」
ほどなく電車がホームに滑り込んできた。
「これに乗らなきゃ。よかったら今度、家で飲もうぜ」
「いいね」
「連絡する」
早瀬はひょいっと電車に乗り込んだ。
「そういえば、まだ小説書いているの?」
何の気なしに聞いてみたら、早瀬は笑った。
「小説なんて、もう全然書いてないよ」
そのまま電車は出発してしまった。
少しショックだった。
今週、本当に早瀬から連絡が来て久しぶりに家を尋ねた。
早瀬が席を立った時に、テーブルに置かれたその『水曜日の白ネコ』のメモを見つけたというわけだ。
「本当に久しぶりだな、元気だった?」
「元気だよ。一応」
「これ、とりあえず適当に買ってきた」
そういってコンビニの袋を、ローテーブルの上に広げた。その時に件(くだん)のメモはサッと片付けられてしまった。
「からあげ棒と、タコとブロッコリーのサラダ。あとはしゃけと昆布と梅のおにぎり」
「美味しそう」
「実はビールを買いそびれたんだ。チューハイならあるけど、飲む?」
「今日はいいや」
早瀬は冷蔵庫から炭酸水を出してくれた。
「いつもコンビニ飯なの?」
「節約のために自炊したいけど、忙しくてだいたいこんな感じ。五月は料理するの?」
「たまにはね。実はうちの会社は不景気で、暇なんだ」
「そっかあ」
二人でとりとめもないことを話した。
特に盛り上がるわけでもないが、気まずくなることもない。昔と同じ、ちょうどいい空気。
ただ早瀬の横顔は昔より大人びていた。
「そろそろ帰るよ」
「うん、また来いよ。来月くらいは?」
「いいね」
帰り道はずっと『水曜日の白ネコ』のことを考えていた。
早瀬はきっとまた小説を書き始めたのだ、となぜか確信があった。
その小説のタイトルが『水曜日の白ネコ』に違いない。
次の週はずっと早瀬のことを考えていた。
正確には早瀬の書いているであろう小説のことを考えていた。
『水曜日の白ネコ』とはどんな小説だろう?
自分の中のなけなしの想像力を絞り出してみる。
✳︎✳︎✳︎
水曜日はとても憂鬱だ。当たり前だ、水曜日に憂鬱じゃない人間なんて一人もいやしない。
『でも僕は憂鬱じゃないよ』
隣からそんな声が聞こえた。
『そりゃそうだろうな』
俺はそちらをふりかえる。
そこでは白猫が優雅に毛づくろいをしていた。チラリとこちらを見たグリーンとブルーのオッドアイが、非現実的な印象を与える。
『猫に水曜日は関係ないよ』
『そりゃそうだろうな』
『むしろ都合がいいんだ』
『どうして?』
白猫は答えなかった。ただ優雅な身のこなしで、当たり前の様に俺の膝に座った。
白猫の母は良く、白猫にこう話していた。
『水曜日は人間に甘えてあげなさい』
『どうして?』
生まれたばかりの白猫が聞くと、母はふわりと笑って見せた。猫独特の笑い方だ。
『人間は水曜日が憂鬱なのよ。だから甘えてあげなさい』
それにね、と母は優雅に言った『猫にも都合がいいでしょ』
『どうして?』
『水曜日はいつもより可愛がって貰えるのよ。だからお互い都合がいいの』
『そんなものかな?』
『あなたも大きくなればわかるわよ』
白猫の耳はなぜか少し赤くなった。
母の言う通りで、大人になった白猫は水曜日が好きだった。
飼い主の膝の上でのんびりと身体を丸めると、長い指先が白猫の背中をなでた。自然とのどが鳴る。
白猫の耳が少し赤くなったが、もちろん彼は気が付かなかった。
ただ滑らかな白猫の身体をずっと撫でつづけた。
✳︎✳︎✳︎
スマホに打ち込んでみた文章を読んで、我ながらわけがわからなくなる。
それでも早瀬の書く『水曜日の白ネコ』を勝手に想像するのは楽しかった。
しばらく普通の日々が続いた。そして次の月になると、早瀬からまた連絡が来た。
『来週うちに飲みに来いよ』
『いいね』
約束の日、仕事終わりに早瀬の家に向かう。途中でこのヘンテコな『水曜日の白ネコ』を早瀬に読んでもらおうと思いつく。
笑われるかも知れないけど、せっかく書いたのだから誰かに読んでもらいたい。
「おつかれ」
早瀬はワイシャツのまま出迎えてくれた。
ローテーブルの上には、またコンビニの袋。
「今日は酒も買っといた。飲むだろ?」
「その前に、ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
恐る恐るスマホを渡すと、早瀬は早速目を通してくれた。
「『水曜日の白ネコ』って小説なんだ?」
「うん、一応」
短いのですぐ読み終わったらしく、早瀬はスマホを返してくれた。
「不思議な話だな。でもなんで『水曜日の白ネコ』なんだ?」
実は…と、前回早瀬の家でメモを読んでしまったことを告白した。
「早瀬がまた小説を書き始めたのなら、嬉しいなと思って。恥ずかしながら真似して書いてみたんだ」
早瀬は目を丸くした。そして、おもむろにコンビニの袋を漁った。
「謝らなくちゃいけない」
「何を?」
早瀬は缶の飲み物を取り出した。奇妙な白ネコの描かれた350mlの缶。
『水曜日の白ネコ』
パッケージにそう書かれていた。
「『水曜日の白ネコ』ってビールの名前だったの?」
「五月が好きそうだから買って来ようと思って、メモしておいたんだ」
こちらの勘違いだったのか。
「ごめん。でもおかげで五月の小説を初めて読めたよ」
恥ずかしさを誤魔化すためにタブを開けて、一口飲んでみた。
ビールの苦みの奥に、爽やかな柑橘系の味が広がった。
美味しいビールだった。
「もう一つ謝らなくちゃいけないことがある」
「なんだよ?」
「小説をもう書いて無いというのは嘘なんだ」
「?」
「小説はずっと書いているよ。書くのをやめたことなんて一度もない」
早瀬は笑った。昔と変わらない横顔だった。
気がつくと、パッケージの奇妙な白ネコがこちらをじっと見つめていた。
驚いたことに、その白猫もオッドアイだった。
※白ネコではありませんが『水曜日のネコ』というビールは本当にあります。
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