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第2話 猫の系譜(6)
ルイフォンは喉を湿らせてから、再び口を開いた。
「親父……。〈天使〉って、いったいなんだ?」
声は引きつり、かすれていたが、瞳はしっかりとイーレオを捕らえていた。
「〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶や命令を書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入して相手を乗っ取るクラッカーだと――キリファが言っていた」
「あぁ……」
すとん、と。ルイフォンの胸の中に、何かが落ちた。
母がクラッカーだったことには、ちゃんと意味があったのだ。
無機物のコンピュータと、有機物の人体と、勿論、違いはあるだろう。けれど、どこかで同じ理屈を使っている。そういうことだろう。
「〈七つの大罪〉は古くから、人間の脳内介入という技術――〈天使〉の研究をしていた。人間の体に『羽』を取り込ませることによって〈天使〉となるらしい」
イーレオの低音に、ぴんと空気が張り詰める。
誰かがごくりと唾を呑んだ。その音が、妙に大きく聞こえる。
「羽は、〈天使〉と侵入対象の人間を繋ぐ接続装置であり、限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こす」
イーレオの声が、寄せては返す。
それは、さらさらとした砂地の足元を、すくっては崩していく波のようだった。
「たいていの〈天使〉は、ほんの数回の介入を行うだけで限界を迎えて死に至るそうだ。……〈天使〉とは、そんな儚い存在だ」
「じゃあ、母さんは……? 母さんは死にかけていたのか? そんな馬鹿な」
母の、あの息子を小馬鹿にしたような顔の下で、実は苦しんでいたなんて思えない。彼女は我慢なんてちっともしない。自由で奔放で、まさに猫のような人だった。
ルイフォンの感情は、顔に出ていたのだろう。イーレオがわずかに笑んだ。
「キリファは『特別』だ。並外れて、羽と相性が良かったらしい。だから、『特別』に、〈七つの大罪〉から名まで与えられた」
「それが、『〈猫〉』……」
「そうだ」
「……なら、どうして母さんは〈七つの大罪〉を出たんだ? 決して待遇は悪くなかったはずだろう!?」
それは、ずっと疑問に思っていたことだ。
「キリファを実験体とした〈悪魔〉――〈蠍〉が、『特別』な〈天使〉の更なる研究のために、キリファを解剖しようとしたらしい」
「なっ……!」
驚くと共に、納得もする。それならば、逃げ出して当然だろう。
そのとき、ぱりん、と不可解な音が響いた。
何が起きたのか、ルイフォンは即座には理解できなかった。
だが、一瞬遅れて、ミンウェイの「エルファン伯父様!?」という鋭い悲鳴が聞こえ、はっとする。
エルファンが、手にしていた硝子のグラスを握りつぶしていた。掌の中でグラスが半分ほどの大きさになり、溶け残っていた氷と硝子の破片が、血の混じった茶の中で仲良く揺れていた。
「ああ、失礼」
皆の注目を浴びていることに気づいたエルファンは、こともなげにグラスをテーブルに置き、そばにあった手ふきで掌を拭う。
そして、実につまらなそうに吐き捨てた。
「キリファは、あの男を――〈蠍〉を愛していた」
「エルファン!?」
ルイフォンは叫ぶ。
迂闊だった。
母のキリファは、エルファンのもと愛人だ。母の話に何も感じないわけがないのだ。
「『愛していた』と言っても、はたから見れば、ただの思いこみだ」
無表情にも、この上なく冷酷にも見える顔で、エルファンが言う。
「〈蠍〉は、キリファをごみ溜めのような生活から拾い上げ、〈天使〉の能力を与え、学をつけてやった。そして『愛している』と囁き続けた。――当時のキリファは、娼館の外の世界を知らない、十五かそこらの小娘だ。〈蠍〉に精神を支配されて当然だろう」
エルファンの低い声には深い憎悪が含まれていた。
このときになって初めて、決して動じないと思っていた異母兄が感情に揺り動かされていることに、ルイフォンは気づいた。
「〈蠍〉はキリファが怖くなったのさ。彼女が本気になって〈天使〉の能力を使えば、自分のほうが支配されることに、今更のように気づいた。だから、研究のためと称し、解剖という形で彼女を殺そうとした。……酷い裏切りだな」
「エルファン……」
「私が迎えに行ったんだよ。――助けを求めてきた〈猫〉をな」
呆然と呟くルイフォンに、エルファンが言う。まるで、心に溜まっていたものを吐き出すかのように、脈絡もなく。
「〈蠍〉の研究室で、私は彼女の〈天使〉の能力を見た。圧倒的だった。彼女は無敵だった。――逃げるだけなら、鷹刀の助けなど彼女には必要なかった」
「なら、どうして母さんは……?」
「〈七つの大罪〉を捨て、〈天使〉の能力を使わずに生きたいと思ったんだろう。だから、自分を保護する相手に鷹刀を選んだ。外の世界を知らない足の不自由な小娘が、普通に生きていくのは難しい。けれど、〈七つの大罪〉を敵視している鷹刀なら、クラッカー〈猫〉として重宝されることが期待できた。実際、そうだったしな」
エルファンは視線を落とした。
その仕草は、彼らしくもなく、余計なことをいろいろと喋ってしまったことを悔いているかのようだった。
けれど最後に、ぽつりと言う。
「私が彼女の〈天使〉の能力を見たのは、助けに行ったときの一度きりだ。だから、彼女は〈天使〉などではない……」
その低い声からは、感情の色が綺麗に抜け落ちていた。無色透明であるが故に、彼の心が透けて見えた……。
やがてイーレオが解散の号令をかけ、この場はお開きとなった。
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