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第3話 密やかなる月影の下で(3)
執務室に、月光が注ぎ込む。
時折、雲に遮られては沈黙する光の気配に、メイシアの心は震えていた。
ほんの少し気になったことを、イーレオに確認したかっただけである。しかし、実は恐ろしくだいそれたことのように思えてきた。……かといって、今更、引き返すのも失礼だろう。
「ふたりだけで話をしたいとは……いったいどうした?」
イーレオの声が響く。
彼は片方の眉をわずかに上げ、魅惑の美貌をかすかに歪めていた。けれど口元はほころんでおり、決して不快に思っているわけではないことを示している。
執務机で相対するのではなく、ソファーで話そうと彼は彼女を促した。
同じ目線でイーレオと向かい合う。相変わらず横柄に足を組んだ姿勢であったが、彼がイーレオである以上、それは仕方のないことだった。
「夜分遅く、申し訳ございません。私の我儘な面会の申し入れ、快諾いただきありがとうございます」
メイシアが水平になるまで深く頭を下げると、長い黒髪がローテーブルを撫でた。そんな相変わらずの律儀さに、イーレオから苦笑が漏れる。
「俺は別に構わないが、こんな時間に、俺とお前がふたりきりなんて知ったら、ルイフォンは穏やかじゃないだろうな?」
ふわりと包み込むような柔らかな顔。彼女の緊張を解きほぐすかのように優しく覗き込む視線は、けれど、どこか色めいている。夜も遅いからか、背で緩く結わえた髪は乱れがちで、頬をかすめて揺れる様は妙に艶めかしかった。
途端、メイシアの顔が耳まで真っ赤になった。
「あ、あの……っ!」
「しかも、あいつに悟られないよう、料理長を通して密かに約束を取りつけるとは……」
「イ、イーレオ様っ!」
無論、メイシアには分かっている。イーレオは、単に彼女をからかっているだけであると。純情な彼女を赤面させて楽しむところはルイフォンそっくりで、さすが彼の父親といえた。
イーレオは、にやりと満足げに目を細めた。
それから、ふっと真顔になる。
「つまり――それだけ、あいつに聞かれたくない話なんだな?」
密談にふさわしく、低い声で囁く。
急激な変化にメイシアは一度、目を瞬かせたが、すぐに「はい」と答えた。
イーレオは黙って頷くと、組んでいた足を戻す。肘は肘掛けに載せたままだが、気持ち背を起こした。それを合図に、メイシアは話を始めた。
「ルイフォンの記憶に、違和感を覚えたんです」
「記憶に、違和感?」
イーレオが眉をひそめる。
「はい。『記憶』と言いますか、彼の『思考』に……」
「ふむ」
「……勿論、私の考え違いかもしれません。けれど、もしも、私の推測が正しければ、ルイフォンは〈天使〉の介入を受けたのだと思います。――おそらくは彼のお母様に。それに関係することで、イーレオ様にお尋ねしたいことがありました」
「ほう……?」
意外だ、と言わんばかり顔で、イーレオは相槌を打つ。けれど、深い色の瞳からは、その心は読み取れない。
「イーレオ様?」
「ああ、いや。てっきり、『母親のキリファが〈天使〉ならば、ルイフォンも〈天使〉なのではないか』と言い出すのだと思っていたんだが……。まさか、別のこととはな」
イーレオの言葉に、メイシアは顔色を変えた。
「そ、そのことも気になっていました……! でもルイフォンは『俺の体は普通だし、後天的に与えられた〈天使〉の能力が、遺伝するわけないだろ』と言って、笑い飛ばしています」
不安がるメイシアに、ルイフォンは『心配するな』と髪を撫でた。
だから、彼を信じて、彼女はその疑惑は封じた。確かに、彼が〈天使〉なら、今までに何かしらの予兆があってしかるべきだろう、と思って。
「あいつらしいな」
「あのっ、イーレオ様は何かご存知なのですか?」
恐る恐る、と言った体でメイシアは尋ねる。
「俺にも分からん。だが、十六年間あいつを見てきて、羽が生えてきたことは一度もない、とだけは言える」
「そうですか……」
真実は不明であることに変わりはない。しかし、イーレオの証言を得たことで、メイシアは少し安堵した。
「話の腰を折って悪かったな。――それで、お前が訊きたいことは? 詫びと言ってはなんだが、なんでも答えてやろう」
イーレオの魅惑の微笑に、メイシアの気持ちが和らぐ。彼女は「ありがとうございます」と頭を下げ、ぎゅっと胸元のペンダントを握った。
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