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第3話 密やかなる月影の下で(5)
高鳴る心臓を抑え、メイシアは畳み掛ける。
「イーレオ様にとっても、キリファさんは大切な方だったはずです。……復讐を考えられたのではないですか?」
執務室に、沈黙が落ちた。それに合わせるかのように、月が陰る。
イーレオは口を閉ざしたままま、額に皺を寄せていた。
「私が今日、イーレオ様にお尋ねしたかったのは、イーレオ様が復讐を果たされたのか否か――ということなんです」
「……それを聞いて、どうする?」
イーレオが問いかけた瞬間、メイシアはすがるように叫んでいた。
「教えてください! もしも、お母様を殺した者が健在なら、彼に害をなす可能性があります。私……彼を守りたい――!」
黒曜石の瞳が凛とした光を放ち、まっすぐにイーレオを捕らえた。
ルイフォンを想う、強い意思。
気高く美しい、戦乙女。
「メイシア……」
イーレオは絶句した。
やや間をおいて、観念したように深い溜め息をつく。
頬杖から体を起こし、イーレオはゆっくりとメイシアを見やる。その目は氷の海のような色をしていた。
「キリファを殺した者は、既に死んでいる」
「では、やはりイーレオ様が……」
「いや……、俺じゃない」
「え?」
メイシアが目を丸くする。
その反応はイーレオの予想通りだったようで、彼は溜め息を重ねた。
「キリファを殺した者は、簡単には手を出すことができない相手だった。そして、俺がもたついている間に、別の奴がそいつを殺した。……俺は何もできなかったんだよ」
「……」
「仇の名前は……言ったら、お前は触れてはいけないものに、触れてしまう。だから、俺がお前に教えられるのは、ここまでだ」
「イーレオ様!?」
核心に迫ろうというところで口をつぐまれ、メイシアは彼女らしくもなく声を荒らげた。けれど、イーレオは首を横に振る。
「キリファが、ルイフォンの思考を歪めるまでして隠した相手だ。関わらないほうがいい」
「そ、そんな! 相手は死んでいるのでしょう? それなのに、何故、秘密になさるんですか? 危険はないはずでは……」
イーレオに詰め寄りながら、メイシアは、はっと気づいた。
大華王国一の凶賊の総帥たるイーレオが、ここまで警戒する相手。そして今、鷹刀一族の周りをうろついている敵と言えば……。
「〈七つの大罪〉ですか……?」
〈七つの大罪〉は個人ではなく、組織。ルイフォンの母の仇が死んでも、組織がなくなるわけではない。危険は残る。
「イーレオ様は、いったい何をご存知なのですか!?」
「過去のしがらみに囚われるのは、年寄りだけでいい」
イーレオは、にやりと眼鏡の奥の目を細めた。明らかに作りものと分かる微笑は、それでも魅入られてしまうほどに麗しい。
「だ、駄目です!」
メイシアは反射的に叫んだ。得も言われぬ不安が、彼女を襲っていた。
「イーレオ様! ひとりで抱えるんですか!? そっ……、そんなの、駄目です! 私は、イーレオ様に忠誠を誓った者です。私には、イーレオ様のお役に立つ義務が……いいえ、権利があります! そう主張できるだけの『価値』が、私にはあります!」
言ってしまってから、口が過ぎたとメイシアは蒼白になった。
いくら身内も同然とはいえ、イーレオは凶賊の総帥だ。わきまえるべき距離がある。その境界線を一歩超えてしまったことを、彼女は肌で感じた。全身が震える。
すべての音が遠ざかった。――ただ目の前のイーレオのわずかな身じろぎだけが、かろうじて感じ取れた。
「……メイシア」
「は、はいっ!」
低く名を呼ばれ、応じる声が裏返った。
「俺は、お前とふたりきりになるべきではなかったな」
「え……?」
メイシアの疑問の呟きには答えず、イーレオは彼とは思えぬほどに儚げに笑う。
彼はすっと立ち上がり、月光の注ぐ窓辺に向かった。薄く開いていた窓から夜風が入り込み、緩く結わえた髪をなびかせる。月明かりを浴びるイーレオの背中は今にも消え入りそうで、メイシアは怖くなった。
「シャオリエに言われていたな。俺はひとりで背負い込みすぎだ、と。――だから、手を差し伸べてくれたお前を、俺は頼るべきなのだろう……」
イーレオはそう言って、ぴしゃりと硝子窓を閉じた。
「イーレオ様……?」
「メイシア。俺はな、〈神〉には逆らえないんだ」
「〈神〉……? それは〈七つの大罪〉の頂点に立つ人のことですよね……?」
メイシアは首を傾げ、イーレオの言葉を反芻する。
次の瞬間、彼女の聡明な頭脳がするりと答えを導き出した。あたかも、知恵の輪が抜け落ちるときのように突然に、あっけなく。
「つまり、イーレオ様は……」
青ざめた顔で、メイシアはやっとそれだけ言えた。
「そういうことだ」
闇に響くような低い声も、やがて夜の静寂に解けていった――。
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