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第4話 よもぎ狂騒曲(3)
厨房は、焼き立てのパンの匂いで満たされていた。オーブンの熱気に混じり、小麦の焼けた香ばしさが漂う。
メイシアは、自然の恵みを胸いっぱいに吸い込んだ。
「いい香り……」
思わず、顔がほころんでくる。
ミンウェイが嬉しそうに微笑みながら、天板を調理台に置いた。分厚いミトンの手に、エプロン姿。いつもは背を覆うように波打っている黒髪も、きっちりひとつにまとめられている。
「焼き立ては、やっぱり格別よ。特に、これは今の時期だけの特別――よもぎあんパンだもの」
珍しいパンを作るから一緒にどうかと誘われ、メイシアはふたつ返事で手伝いを申し出た。
よもぎあんパンどころか、パンを作ること自体、初めてだった彼女は、粉まみれになりながらも、作り上げていく過程に夢中になった。だから、こうして薄く湯気を上げているパンに、感動すら覚えていた。
「今年も美味しそうに焼けましたね」
料理長が太鼓腹を揺らしながら現れた。彼が食事の下ごしらえをしているところに、間借りしていたのだ。
ミンウェイは嬉しそうに「ありがとう」と応じ、尋ねる。
「これから試食だけど、料理長もいかが?」
「勿論、ご相伴にあずかります」
料理長は、ふくよかな顔に埋もれそうなほど目を細めると、食器棚から皿を出してくる。
「私、お茶を用意してきます」
以前は、厨房でつまみ食いなんて、お行儀が……と、抵抗のあったメイシアも、今ではすっかり馴染んでいた。メイドたちから学んだ手際で素早くお茶の準備をし、小さなお茶会が始まった。
「餡が熱くなっているから気をつけてね」とのミンウェイの忠告に、メイシアは恐る恐る中を割る。
外側はしっかり茶色く焼けているのに、内側は鮮やかな緑色をしていた。と同時に、火傷しそうなほどの蒸気と餡が飛び出してくる。ひと口かじれば、小麦のほの甘さに混じり、爽やかな草の香りが鼻を抜けた。
「美味しいです」
「でしょう?」
ミンウェイが得意げな顔をする。
その表情は、ルイフォンがコンピュータに関して説明するときの顔とよく似ていた。顔立ちは違っていても、やはり叔父と姪である。
普段のミンウェイは、執務室で総帥イーレオの補佐をしているか、温室で草花の手入れをしているかの、どちらかであることが多い。だから彼女がパンを焼くと言ったとき、メイシアはわずかながらも意外に思った。
けれど、材料のよもぎ摘みのお供をして納得した。よもぎは、薬草としての効能の高い植物だと教えてくれたのだ。パン作りは、よもぎの活用法のひとつだった、というわけだ。
柔らかな新芽だけを丁寧に摘み取り、自然に感謝して微笑む。草の香をまとうミンウェイらしい仕草に、メイシアは素敵だなと思い、そして少し嬉しくなった。
ミンウェイは、ふとした時に暗い顔をすることが増えた。
父親である〈蝿〉の存在が見え隠れする中で、不安を覚えるのだろう。けれど、イーレオの言う通り、今はどうすることもできない。
だから、ミンウェイが少しでも楽しげな様子を見せてくれると、ほっとするのだ。
「――メイシア」
唐突に、ミンウェイに呼ばれた。
どうしたのかと見やれば、彼女はやや眉を寄せていた。
「あのね、お使いを頼みたいの」
「はい。構いませんが……?」
今日はミンウェイとのパン作りの約束があったので、メイドたちに何か教わる予定は入っていない。
「ちょっとね、申し訳ないんだけど……」
ミンウェイらしくもなく、歯切れが悪い。隣では料理長がにこやかに笑ながら、「ミンウェイ様のせいではありませんよ」と言っている。
「ミンウェイさん?」
メイシアは首をかしげた。
「このよもぎあんパンを届けてほしいの。本当はリュイセンに持っていってもらうつもりだったのに、手違いでもう出掛けちゃったのよ」
なんでも、ミンウェイはこのあと用事があって行けないのだという。
「私でよければ構いません。どなたにお届けすればよろしいのでしょうか?」
そう答えたメイシアは、思いもよらぬ相手の名前を告げられたのであった。
「――まったく、お祖父様は何を考えてらっしゃるのかしら……?」
メイシアの後ろ姿が見えなくなると、ミンウェイは溜め息混じりに呟いた。
「イーレオ様には、深いお考えがおありなんですよ」
料理長がお茶のおかわりを注ぎながら、にこやかに答える。
「けど、リュイセンが忘れたことにしなくても、単にメイシアがお使いとして行ってもよかったんじゃないかしら?」
「メイシアがあの家に行くのを、ルイフォン様が嫌がるからじゃないでしょうか」
「だから、『やむを得ず』という形にした、ってこと?」
ミンウェイは承服しかねる、とばかりに柳眉を寄せながら、お茶を受け取る。
「ええ。リュイセン様がいらっしゃれば、メイシアも気が楽でしょう。それにイーレオ様は、チャオラウを運転手に指名されましたし」
そこでまた、ミンウェイは再び溜め息をついた。
「チャオラウも頑固だから……。皆さんにご挨拶しないで、車で待っているだけだと思うわ」
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