第5話 薄雲を透かした紗のような(2)

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第5話 薄雲を透かした紗のような(2)

「メイシアさん、こちらです」  レイウェンが振り返った。軽く首を傾け、メイシアの目線に合わせてふわりと微笑む。家の(あるじ)自らの案内に恐縮しつつ、メイシアは勧められるままに部屋に入った。  その途端、彼女は足を止め、息を呑んだ。 「綺麗……」  部屋の奥の壁に、深い藍色の衣装が飾られていた。  きらびやかな金糸による大輪の牡丹の花が、左肩から右脇へと連なるように咲き誇っていた。その華やかさとは対照的に、藍の地には同色の糸でひっそりと無数の葉が織り刻まれ、絹の光沢によって浮き上がっている。  扉とはちょうど向き合う位置に、大きく両腕を広げた姿で掲げられたその衣装は、まるで来客を迎え入れようとしているかのようだった。 「びっくりした?」  続いて入ってきたクーティエが尋ねる。手にはメイシアから受け取ったよもぎあんパンの袋があり、彼女はとてもご機嫌だった。 「それ、『いらっしゃい!』って、言っているみたいでしょ? 私が考えたの。――この衣装ね、母上が女王陛下の即位式で舞ったときのものよ」  いたずらっぽい笑みの後ろには、自慢したくてうずうずしていた気持ちが見え隠れしている。  そこへ、半ば呆れたような声が割り込んだ。 「おい、クーティエ。これで客を驚かせたのは何回目だ? やはり、お前の趣味は悪い」  メイシアは、どきりとした。この部屋は無人だと思っていたのだ。扉を開けた瞬間から今まで、まるで人の気配を感じなかった。  けれどよく見ればリュイセンと、もうひとり――今の声の(ぬし)が、向かい合ってソファーに座っている。状況から考えて、クーティエの母、レイウェンの妻のシャンリーだろう。  壁の衣装に気を取られ、挨拶もしていなかった。メイシアは焦りと羞恥を覚える。 「し、失礼いたしました。ご無礼、お許しください。――メイシアと申します。以後、お見知りおきを」  かっと頬を染めながら、彼女は深々と頭を下げた。長い黒絹の髪がさらさらと後を追い、赤い顔を覆う。しかし逆に、隠れていた耳の赤さが露呈してしまった。 「へ……?」  メイシアの緊張ぶりにシャンリーの目が点になる。続けて、ぷっと吹き出した。 「おっと、こちらこそ失礼。けど、そんなにかしこまらないでくれ」  彼女はすっと立ち上がり、メイシアに歩み寄る。チャオラウとの血縁を感じさせる女丈夫。ミンウェイの立ち姿もすらりと美しいが、シャンリーには圧倒的な存在感がある。女性にしてはやや低めの声質も、男性のような粗野な口調も、彼女の魅力を損なうどころか引き立てていた。 「草薙シャンリーだ。よろしく」  差し出された右手を握ると、優しく握り返された。刀を振るう硬い掌だが、どこか温かい。 「……なるほど、噂通り可愛らしいお嬢さんだ。それでいて、イーレオ様が一目置くというのだから興味深い」  シャンリーは朗らかに笑い、ソファーに座るようメイシアを促した。そして一番後ろから、のそりとついてきたチャオラウに「ようこそ、親父殿」と囁く。そこには照れくささと共に、喜びが漏れ出ていた。  ルイフォンとは仲の悪い親戚であると身構えていたメイシアは、この家の人々の好意的な態度に戸惑っていた。敵対しているのは、この場にいない『ユイラン様』だけなのだろうか……?  メイシアは落ち着きなく、あたりを見渡す。  ここは応接室であるらしい。きっと、レイウェンの仕事関係の者を通すのだろう。部屋中が賞状や感謝状、トロフィーや楯といった名誉ある品々で埋め尽くされ、これまでの実績を無言で訴えかけている。  大きく引き伸ばされた写真は、藍色の衣装を着て舞うシャンリー。即位式のものだ。あの華やかな舞台を彩ったのは、舞い手として最高の地位にあるといえる。四年前の式典には貴族(シャトーア)だったメイシアも参列したので、その価値は身を持って知っている。 「あ……」  剣舞の名手シャンリーや若手のクーティエ、業績を上げるレイウェンの会社への賞賛の嵐ともいえる壁の中、メイシアは表彰される『ユイラン』の名を見つけた。 「ユイラン様はデザイナーだったんですね」  メイシアが呟くように言うと、「そうよ!」とクーティエが嬉しそうに答えた。 「見て! このスカートも祖母上のデザインなのよ。可愛いのに、どんな動きをしても平気なの」  座った姿勢で、膝よりかなり上に来ている短い裾を、クーティエは更につまんで持ち上げる。 「クーティエ! 少しは周りを気にしろ」  軽い拳骨を飛ばしたのは、意外なことにチャオラウだった。  彼は憮然とした顔で目をそらす。無精髭が苦々しげに揺れていた。総帥の護衛として常にイーレオの背後に控え、忠実――それでいて時に主人に、軽口と皮肉さえも言える、無敵の腹心の面影は消えていた。 「……っと、失礼」  チャオラウは、ごほんと咳払いをして、メイシアに目礼をする。 「親父殿は、いつからそんな口うるさい(じじい)になったんだ?」  シャンリーが呆れたように言うと、チャオラウはぎろりと睨んで鼻を鳴らした。 「お前の育て方を間違えたから、せめてクーティエだけは、まともであってほしいだけだ」 「でも、じぃじ。この服、中が見えないようになっているのよ?」  すかさず、クーティエが口を挟むと、横からレイウェンの苦笑が漏れた。 「クーティエ、そういう問題じゃないよ」  娘をやんわりとたしなめ、それからレイウェンは、メイシアに申し訳なさそうに頭を下げる。 「騒がしい家ですみません。メイシアさん、驚かれたでしょう?」 「あっ……」  メイシアは、いつの間にかぽかんと開けていた口を手で抑える。 「い、いえ! ……素敵なご家族ですね」  気兼ねなく言葉が出るのは、仲が良い証拠だ。メイシアの実家は、使用人たちの目があったため、こうはいかなかった。  ――けれど、それでも。ほんの少し前までは、彼女のすぐそばに家族がいた。  メイシアの顔に影が落ちる。知らず、胸元のペンダントを握りしめていた。 「……メイシアさん?」  レイウェンが不審の声を上げる。  そのとき、シャンリーの携帯端末が着信音を鳴らした。申し合わせたように、皆がぱっと口を閉ざす。 「はい。……ええ、来ていますよ。え? ……分かりました」  簡単なやり取りの末、シャンリーが端末を切った。そして、メイシアに顔を向ける。  その目線に、メイシアの心臓がどきりと音を立てた。 「メイシア、ユイラン様が部屋まで来てほしいと。――案内する」 「は、はい!」  思わず大きな声になってしまった返事が、飾り棚の硝子戸を震わせた。 「そんなに構えるな。悪い話じゃない」  シャンリーがにやりと笑い、軽い足取りで扉へと向かっていった。
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