17人が本棚に入れています
本棚に追加
第5話 薄雲を透かした紗のような(2)
「メイシアさん、こちらです」
レイウェンが振り返った。軽く首を傾け、メイシアの目線に合わせてふわりと微笑む。家の主自らの案内に恐縮しつつ、メイシアは勧められるままに部屋に入った。
その途端、彼女は足を止め、息を呑んだ。
「綺麗……」
部屋の奥の壁に、深い藍色の衣装が飾られていた。
きらびやかな金糸による大輪の牡丹の花が、左肩から右脇へと連なるように咲き誇っていた。その華やかさとは対照的に、藍の地には同色の糸でひっそりと無数の葉が織り刻まれ、絹の光沢によって浮き上がっている。
扉とはちょうど向き合う位置に、大きく両腕を広げた姿で掲げられたその衣装は、まるで来客を迎え入れようとしているかのようだった。
「びっくりした?」
続いて入ってきたクーティエが尋ねる。手にはメイシアから受け取ったよもぎあんパンの袋があり、彼女はとてもご機嫌だった。
「それ、『いらっしゃい!』って、言っているみたいでしょ? 私が考えたの。――この衣装ね、母上が女王陛下の即位式で舞ったときのものよ」
いたずらっぽい笑みの後ろには、自慢したくてうずうずしていた気持ちが見え隠れしている。
そこへ、半ば呆れたような声が割り込んだ。
「おい、クーティエ。これで客を驚かせたのは何回目だ? やはり、お前の趣味は悪い」
メイシアは、どきりとした。この部屋は無人だと思っていたのだ。扉を開けた瞬間から今まで、まるで人の気配を感じなかった。
けれどよく見ればリュイセンと、もうひとり――今の声の主が、向かい合ってソファーに座っている。状況から考えて、クーティエの母、レイウェンの妻のシャンリーだろう。
壁の衣装に気を取られ、挨拶もしていなかった。メイシアは焦りと羞恥を覚える。
「し、失礼いたしました。ご無礼、お許しください。――メイシアと申します。以後、お見知りおきを」
かっと頬を染めながら、彼女は深々と頭を下げた。長い黒絹の髪がさらさらと後を追い、赤い顔を覆う。しかし逆に、隠れていた耳の赤さが露呈してしまった。
「へ……?」
メイシアの緊張ぶりにシャンリーの目が点になる。続けて、ぷっと吹き出した。
「おっと、こちらこそ失礼。けど、そんなにかしこまらないでくれ」
彼女はすっと立ち上がり、メイシアに歩み寄る。チャオラウとの血縁を感じさせる女丈夫。ミンウェイの立ち姿もすらりと美しいが、シャンリーには圧倒的な存在感がある。女性にしてはやや低めの声質も、男性のような粗野な口調も、彼女の魅力を損なうどころか引き立てていた。
「草薙シャンリーだ。よろしく」
差し出された右手を握ると、優しく握り返された。刀を振るう硬い掌だが、どこか温かい。
「……なるほど、噂通り可愛らしいお嬢さんだ。それでいて、イーレオ様が一目置くというのだから興味深い」
シャンリーは朗らかに笑い、ソファーに座るようメイシアを促した。そして一番後ろから、のそりとついてきたチャオラウに「ようこそ、親父殿」と囁く。そこには照れくささと共に、喜びが漏れ出ていた。
ルイフォンとは仲の悪い親戚であると身構えていたメイシアは、この家の人々の好意的な態度に戸惑っていた。敵対しているのは、この場にいない『ユイラン様』だけなのだろうか……?
メイシアは落ち着きなく、あたりを見渡す。
ここは応接室であるらしい。きっと、レイウェンの仕事関係の者を通すのだろう。部屋中が賞状や感謝状、トロフィーや楯といった名誉ある品々で埋め尽くされ、これまでの実績を無言で訴えかけている。
大きく引き伸ばされた写真は、藍色の衣装を着て舞うシャンリー。即位式のものだ。あの華やかな舞台を彩ったのは、舞い手として最高の地位にあるといえる。四年前の式典には貴族だったメイシアも参列したので、その価値は身を持って知っている。
「あ……」
剣舞の名手シャンリーや若手のクーティエ、業績を上げるレイウェンの会社への賞賛の嵐ともいえる壁の中、メイシアは表彰される『ユイラン』の名を見つけた。
「ユイラン様はデザイナーだったんですね」
メイシアが呟くように言うと、「そうよ!」とクーティエが嬉しそうに答えた。
「見て! このスカートも祖母上のデザインなのよ。可愛いのに、どんな動きをしても平気なの」
座った姿勢で、膝よりかなり上に来ている短い裾を、クーティエは更につまんで持ち上げる。
「クーティエ! 少しは周りを気にしろ」
軽い拳骨を飛ばしたのは、意外なことにチャオラウだった。
彼は憮然とした顔で目をそらす。無精髭が苦々しげに揺れていた。総帥の護衛として常にイーレオの背後に控え、忠実――それでいて時に主人に、軽口と皮肉さえも言える、無敵の腹心の面影は消えていた。
「……っと、失礼」
チャオラウは、ごほんと咳払いをして、メイシアに目礼をする。
「親父殿は、いつからそんな口うるさい爺になったんだ?」
シャンリーが呆れたように言うと、チャオラウはぎろりと睨んで鼻を鳴らした。
「お前の育て方を間違えたから、せめてクーティエだけは、まともであってほしいだけだ」
「でも、じぃじ。この服、中が見えないようになっているのよ?」
すかさず、クーティエが口を挟むと、横からレイウェンの苦笑が漏れた。
「クーティエ、そういう問題じゃないよ」
娘をやんわりとたしなめ、それからレイウェンは、メイシアに申し訳なさそうに頭を下げる。
「騒がしい家ですみません。メイシアさん、驚かれたでしょう?」
「あっ……」
メイシアは、いつの間にかぽかんと開けていた口を手で抑える。
「い、いえ! ……素敵なご家族ですね」
気兼ねなく言葉が出るのは、仲が良い証拠だ。メイシアの実家は、使用人たちの目があったため、こうはいかなかった。
――けれど、それでも。ほんの少し前までは、彼女のすぐそばに家族がいた。
メイシアの顔に影が落ちる。知らず、胸元のペンダントを握りしめていた。
「……メイシアさん?」
レイウェンが不審の声を上げる。
そのとき、シャンリーの携帯端末が着信音を鳴らした。申し合わせたように、皆がぱっと口を閉ざす。
「はい。……ええ、来ていますよ。え? ……分かりました」
簡単なやり取りの末、シャンリーが端末を切った。そして、メイシアに顔を向ける。
その目線に、メイシアの心臓がどきりと音を立てた。
「メイシア、ユイラン様が部屋まで来てほしいと。――案内する」
「は、はい!」
思わず大きな声になってしまった返事が、飾り棚の硝子戸を震わせた。
「そんなに構えるな。悪い話じゃない」
シャンリーがにやりと笑い、軽い足取りで扉へと向かっていった。
最初のコメントを投稿しよう!