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第5話 薄雲を透かした紗のような(3)
メイシアとシャンリーが応接室を出たあと、クーティエが食堂へと去っていった。楽しみにしていた、よもぎあんパンを食べるためである。
来客用の部屋を食べこぼしで汚すわけにはいかないという、社長令嬢らしい配慮。加えて、甘い菓子パンは苦目のお茶と一緒にいただきたいという、十歳の少女にしてはなかなか渋い嗜好。この両者を満たすべく、彼女は足取り軽くスキップをしていった。
いろいろな意味で華やかな女性たちがいなくなると、部屋は凪いだように静まり返った。先ほどまで、苦虫を噛み潰したような顔をして無精髭を逆立てていたチャオラウも、すっかり普段の彼に戻っている。
この家の主、草薙レイウェンは、ソファーの座る位置を少しずらし、久しぶりに会う弟の正面に着いた。軽く背をかがめ「リュイセン」と、優しく包み込むような低い声を落とす。
はっとしてリュイセンが目線を上げると、自分とそっくりな顔が穏やかに微笑んでいた。
しかし、似ているのは表面の薄皮だけだ。
「ずっと、うつむき加減だね。君らしくないな」
「兄上……」
十歳ほど年長のこの兄には、祖父イーレオや、父エルファンのようなアクの強さはない。けれど、ごく自然に包容の腕を広げ、清も濁も併せ呑む。気づけば、内側から匂い立つ、色香の如き魅力に抱かれているのだ。常に冷静であれと、たしなめられてばかりのリュイセンとは器が違う。
「何があったんだい?」
血族特有の聞き慣れた低い声質は、けれど誰よりも甘やかに響く。
「……『何かあったのか』ではなくて、『何があったんだ』と訊くんだな、兄上は」
「君がそんな顔をしているのに、何もないわけがないだろう?」
優しげな顔をして、時として強引。そんなところも、リュイセンには敵わない。
黙っていても、あとでシャンリーから話がいくのだろう。チャオラウが寡黙に控えているのも気になるが、どうせ彼も知っているはずだ。だったら、口を閉ざすことに意味はなかった。
「母上が鷹刀の屋敷を出たのは俺のためだったと、義姉上から聞いた」
「ああ……、聞いたのか」
レイウェンは眉を寄せ、けれど深い息を吐きながら口元を緩める。
「ずるい大人たちの自己満足だから、君が気にすることではないよ」
「けど、兄上……」
レイウェンが鷹刀一族の屋敷を出たのは、今のリュイセンとたいして変わらない歳のころだ。
生まれたときからずっと、兄の背中を見ている。何年経っても、永遠に超えることができない。焦れるような気持ちで見やれば、兄はひと筋の切なさの混じった優しい顔をしていた。
「それにね。母上が鷹刀を出たのは、ミンウェイの居場所を作るためでもあったんだ」
「ミンウェイの居場所?」
リュイセンの瞳が、鋭い光を放つ。
顔つきが変わった弟を頼もしげに見つめ、レイウェンは頷いた。
「今、ミンウェイは総帥の補佐として、なくてはならない存在だろう?」
「あ? ああ……。それが何か……?」
「鷹刀にとって、ミンウェイはとても大切な人間だ。彼女は皆に愛されている。――けれど、十年前はそうとも言い切れなかった。周りもそうだし、何よりもミンウェイ自身が自分を否定してばかりいた」
「……」
ミンウェイが、父親と共に暗殺者として姿を現したのは、十数年前だ。
当時、まだ小さかったリュイセンには詳しいことは説明されず、従姉が一緒に住むことになったとだけ伝えられた。けれど周りの大人たちは、彼女と父親が総帥の命を狙ったことを知っていたはずだ。当然、風当たりも強かっただろう。
「君も覚えているだろう? 母上が鷹刀にいたころは、母上が総帥の補佐をしていた」
「ああ。なのに、デザイナーになると言って、補佐の大役をミンウェイに押し付けて、兄上と共に出ていった」
吐き捨てるようにリュイセンが言うと、レイウェンが淋しげに苦笑した。
「君には、そう見えただろうね」
「兄上?」
「母上が出ていった結果、ミンウェイが仕事を引き継いだ。……それはね、彼女に役割を持たせることで、彼女は鷹刀にとって必要な人間であると分かりやすい形で示し、居場所を作った――ということだ」
「……っ!」
「祖父上が口癖のように、『ミンウェイは俺のものだ。一族のものだ』と言うだろう? あれもミンウェイに対する暗示というのかな、彼女はここに居ていいのだと、言い聞かせているんだよ」
「……」
押し黙ったリュイセンに、レイウェンが穏やかな眼差しを向ける。
「母上が屋敷を出たのは、荒療治に近かったけどね。何しろ、当時の鷹刀の屋敷でミンウェイが一番信頼していたのが母上で、一番仲が良かったのが歳の近いシャンリーだ。そのふたりがいなくなったとき、ミンウェイがどうなるのか心配だった」
うまくいって本当によかった、とレイウェンは微笑む。
しかし、次の瞬間、彼の顔から柔らかな表情がすっと消えた。代わりに、彼らの父親そっくりの、凍てついた美貌が現れる。
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