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第6話 かがり合わせの過去と未来(4)
しんと静まった室内に、鳥のさえずりが流れ込んできた。
屋根の上にいたのだろうか。ひとしきり楽しげな歌声が響き渡ると、力強い羽ばたきと共に窓に影が走った。
手紡ぎ糸のカーテンにも影が落ちる。どんな熟練の職人でも、必ず太さに揺らぎのあるこの糸に、光と影が抜けていく。
ユイランの上品な微笑みの上にも、揺らぎを与えていく――。
「ルイフォンに手紙を渡せば、私の役目は終わるわ」
溜め息のような呟きに自然と背が丸まり、細いうなじに銀色の後れ毛が落ちた。
「――けど、ルイフォンにとっては、これが始まりになるのね。私が助けられなかったキリファさんの足跡を、彼が追うことになるんだわ……」
美麗な声が、揺らぐ。
思いがけない言葉に、メイシアは反射的に尋ねた。
「キリファさんを助けられなかった、って……どういうことですか? ――ユイラン様は、キリファさんが亡くなった原因をご存知なのですか?」
メイシアは、詰め寄るように身を乗り出す。
ユイランは勢いに押されて息を止め、瞬きをした。それから、肩を落としながら息を吐く。
「ごめんなさい。勘違いさせてしまったわね。そういう意味ではなくて……。明らかに彼女は何かに巻き込まれていると、分かっていたのに何もできなかった――ということよ」
「そう、でしたか……。すみません、私っ……。失礼いたしました」
メイシアは椅子に背を戻しながら、勢い込んでしまった自分を恥じ入った。
「いいえ、こちらこそ悪かったわ」
ユイランは首を振る。
「私に手紙を預けたときのキリファさんは、どう考えても自分に危険があることを確信していたわ。……だって、そうでしょう? 一緒に住んでいる息子へのメッセージを、わざわざ手紙にして他人に預けるんですもの」
確かに、その通りである。
「けど、どうしてユイラン様に……」
メイシアはそう言いかけて、ためらった。正妻と愛人の間柄で、ユイランとキリファは不仲であったはずだと、はっきりと口にするのは礼を欠くのではないかと思ったのだ。
――と、そのとき。メイシアは視線を感じた。ユイランの隣に座る、シャンリーである。男装の麗人ともいわれる彼女は、実に男前な顔でにやりと目配せをした。
「四年前、キリファさんが家に来たときのことは、私もよく覚えていますよ。随分と珍しい客が来たものだな、と思いましたから。――で、ユイラン様。質問なんですが、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
ユイランは軽く首を曲げ、横にいるシャンリーを見やる。
「リュイセンに言わせると、キリファさんは、ユイラン様とは『敵対関係』にあるそうです。そんな相手に、まるで遺言のような手紙を預けるなんて普通はあり得ません。――何か思い当たる理由は、おありでしょうか?」
「シャンリー、良い質問をありがとう」
ユイランは口の端を上げた。緩衝材としてこの場に残した義理の娘が、正確に役割を理解してくれた謝意である。
「私もキリファさんに訊いたわ。『なんで、私に預けるの?』と。そしたら、『まさか、あんたがあたしの手紙を持っているだなんて、誰も思わないだろうから』ですって」
ぷっとシャンリーが吹き出した。
「さすが、キリファさんらしい」
「それだけ価値のある手紙ということなんでしょう。中身を勝手に見るわけにはいかないから、確認していないけれど。――状況から考えて、キリファさんが巻き込まれていた『何か』に関することだと思うわ」
「――ですね、きっと……」
シャンリーが頷き、義理の母娘は目で言葉を交わす。明るい生成りの壁紙に反射した光が、ふたりの顔を照らし、陰りのある笑みを作った。
そこには、死者を悼む旋律が流れていた。
少なくともメイシアの耳には、無音の鎮魂歌が聞こえた。
「おふたりは、キリファさんのことを……?」
なんと訊けばよいのだろう?
口ごもるメイシアに、ユイランがふわりと笑った。
「大好きだったわ」
切れ長の瞳に涙が浮かぶ。ユイランは慌ててハンカチを取り出し、目元を押さえた。
「やぁね、歳を取ると涙もろくなっちゃって」
「ユイラン様は充分にお若いです。イーレオ様なんてもっとご高齢のはずなのに、あの通りなんですから」
そう言うシャンリーの声もわずかに震えている。
メイシアは黒曜石の瞳を瞬かせ、呆然とふたりを見つめた。唇が無意識に「どうして……?」と紡ぐ。
「それはね、メイシアさん」
涙声を押して、ユイランが口を開く。
「キリファさんは、まっすぐにエルファンを愛してくれたから」
張りのある強い声だった。
けれど、その意味を測りかね、メイシアは一瞬それがユイランから発せられたものと理解できなかった。
ユイランが目尻を下げて笑う。涙が再びにじみ出て、彼女はハンカチで拭った。それから、話す内容をまとめてあるという書き付けを手に取り、「それでは――」と切り出す。
「メイシアさんが一番気になるのは、ヘイシャオ――〈蝿〉のことだと思うけれど、その前に鷹刀という一族の過去とキリファさんのことをお話しさせてね」
紙の上に視線を落とし、少し目を細めてから思い出したように眼鏡を掛けた。
老眼鏡であるらしい。「やっぱり、年寄りね」と、ユイランは可愛らしく顔を赤らめた。
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