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第1話 薫風の季節の始まり(1)
庭先に寝転ぶと、青芝生の瑞々しさが鼻腔を刺激した。柔らかな大地の温かさが体を包み、自然の歌声が耳朶をくすぐる。
軽く瞳を閉じれば、木漏れ日が、ちらちらと瞼で踊る、せわしない気配。
のどかで穏やかな、春の終わりの午後の日和。鷹刀ルイフォンは、横になったまま両腕をいっぱいに広げ、猫背を伸ばした。
一本に編んだ髪が背中の下で邪魔になり、彼は、やや面倒臭そうに引き抜く。薙ぎ払うように投げ出された黒髪が薫風になびき、毛先に飾られた青い飾り紐の中で、金色の鈴が軽やかに輝いた。
――ふと。ルイフォンは、近づいてくる足音を感じた。
初めは小走りで、けれど途中からは様子を窺うように、ゆっくりになる。
横になっている彼を、気遣っているのだろう。
目を開けなくとも、分かる。
優しい足音は、彼の最愛の少女、メイシア。
天と地ほど違う世界に生まれながら、気づけば惹かれ合っていた。共に居ることを望んだ結果、貴族だった彼女は、すべてを捨てて彼のもとに飛び込んできてくれた……。
彼女の息遣いが、すぐそばまでやってきた。
彼を起こさないように、そっと顔を覗き込んでいるつもりなのだろう。しかし長い黒髪の先が、彼の頬を優しく撫でている。
詰めの甘い、可愛らしい配慮に笑いを噛み殺しながら、彼は目をつぶったまま手を伸ばした。手探りの感覚でも、彼の指先が彼女を逃すはずもない。
「きゃっ」
小さな、しかし心底驚いたような可憐な悲鳴。
寝転がった彼の腕の中に、華奢な体躯が倒れ込んだ。抱き寄せた彼女の心臓が、どきどきと高鳴るのが伝わってくる。
「ル、ルイフォン……!」
狸寝入りも大概にするか、と目を開ければ、メイド服姿のメイシアが、さぁっと頬を赤く染めていくところだった。相変わらずの反応に嗜虐心がくすぐられ、彼はより一層、強く彼女を抱きしめる。
「ルイフォン! ひ、人がっ!」
ここは大華王国一の凶賊、鷹刀一族の屋敷の庭。桜の大樹が枝を広げる木陰の中である。当然のことながら、一族の凶賊や、庭師、メイドらが、始終うろうろとしている。
「別に、見られて困るものでもないだろ。俺たちの仲だし?」
「ルイフォンが平気でも、私が恥ずかしいの……」
涙目になりながら訴える。それでも、強引に彼の腕から暴れ出たりはせずに、縮こまっているところが、なんとも彼女らしい。
屋敷の者たちにしてみれば、彼らのやり取りなど、もはや慣れっこである。『ルイフォン様が、またメイシアを困らせているなぁ』と、見て見ぬふりをして、口元をほころばせるのだった。
――メイシアは、『様』と敬称をつけて呼ばれることを頑なに拒んだ。
自分はルイフォンのそばに居るだけの者で、一族になんら貢献していない。それどころか、平民として生きていくために、皆に教えを請うている身であるから、というのが彼女の弁である。
そんな彼女の謙虚さに、貴族嫌いの凶賊たちも心を開いた。そもそも、敬愛する総帥の、愛すべきやんちゃな末子が、貴族という別世界からさらってきた唯一無二の相手なのである。好意的にならない理由がない。
ルイフォンだって、鷹刀の一族ではなく、対等な立場の協力者〈猫〉であると明言したため、正式には部外者。――けれど、『それが、なんだ?』
細かいことは気にしない。
それが総帥イーレオの方針であり、鷹刀一族の哲学だった。
ルイフォンは、メイシアの髪に口づけると、ようやく彼女を解放した。ひょいと半身を起こすと、背中についた芝が、ぱらぱらと落ちて風に流される。
「それで、今の時間に呼びに来たということは、お茶か?」
優しく笑いながら、ルイフォンが尋ねる。
お茶も満足に淹れられないと嘆いていた彼女は、この屋敷で暮らすようになってから、まず初めにメイドに弟子入りした。
もともと手先が器用で、頭も良いので、彼女の上達は早かった。今では、メイドの仕事をひと通りこなせるようになっている。最近は料理長について回り、料理を覚えているらしい。
「はい。今日は、皆さんとスコーンを焼いたの。……あのね。凄く、美味しそうにできたの」
少し照れたように、もじもじと両手を組み合わせ、メイシアが嬉しそうに笑う。
しみひとつない、白魚のようだった手には、小さな切り傷や火傷痕ができている。今は気候がいいから荒れてはいないが、寒くなったらそうはいかないだろう。
そんな変化に心が痛まないわけではないけれど、彼女の笑顔は幸せそのもので、彼は緩やかに目を細めた。
「ルイフォン?」
「ああ、スコーンだな。行こう」
ルイフォンは立ち上がり、尻についた芝をはたき落とす。しかし、メイシアは座り込んだまま、彼の背を不安げに見上げていた。
「どうした?」
彼は手を差し出し、彼女を立ち上がらせた。並ぶと、彼のほうが軽く頭ひとつ分以上、目線が高くなる。鷹刀一族の直系ほどには長身ではないが、彼とて、そこそこはあるのだ。
だからメイシアは、爪先立ちになって手を伸ばした。指先が、ルイフォンの癖の強い前髪に触れ、くしゃりと撫でる。
「……私がそばに居るから」
見れば、メイシアの黒曜石の瞳が潤んでいた。そんな彼女の様子を訝しがりながらも、ルイフォンは笑いかける。
「どうした、急に?」
彼の視線を避けるように、彼女はうつむく。踵を下ろし、低くなった彼女は肩を丸め、けれど、ぎゅっと彼の服を掴んでいた。
「ルイフォン、怒らない?」
「俺が、お前に対して怒るわけないだろ?」
そう彼は微笑むが、彼女は服の端を必死に握りしめる。
「……あのね。ルイフォンが…………穏やかすぎるの。イーレオ様から『あのこと』を聞いて以来……、……覇気がないの」
「……!」
呼吸が一瞬、止まる。
いつもは細い猫の目が、大きく見開かれた。
「ご、ごめんなさいっ! 私、おかしなことを言っている……!」
メイシアは脅えたようにうつむき、激しく首を振る。
――彼女の言葉は、決して尖ってはいなかった。けれど、彼の心臓に深く突き刺さった。
「メイシア……」
ルイフォンは、ふわりとメイシアを抱きしめた。簡単に押しつぶせてしまいそうな、柔らかで儚げな感触。けれど芯の強い、彼の大切な戦乙女。
「……ああ、そうだな。俺にはお前がついている」
真実を確かめて以来、常に漠然とした不安を抱えていた。
無意識のうちに心が脅え、いつもなら好戦的に笑うところで、どこか萎縮していた。
「俺らしくなかったな。……馬鹿だな、俺。お前が居るのにさ」
ふぅっと大きく息を吐く。胸のつかえをすべて吐き出すように。
「よしっ、お前の自信作のスコーン、食いに行こうぜ」
ルイフォンが目を細め、にっと癖のある笑顔を作る。
その顔は、いつもの青空の笑顔に比べて、いくらか雲が漂っていたが、それでも晴れやかだった。
メイシアが、ほっと安堵した瞬間、彼女の唇を彼の唇がかすめる。
「ル、ルイフォン!」
再び頬を染める彼女の手を引き、彼は青芝生を跳ねかせ、走り出した。
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