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第7話 幾重もの祝福(1)
硬質なリノリウムの床に、カタカタという打鍵の音が跳ね返る。
時折り止まっては、また勢いよく叩きつける。あるいはキーを押すことなく考え込み、苛々と指先だけが揺れ動く。
OAグラスが、モニタ画面の四角い光を反射する。無機質で無表情な顔が、ただひたすら文字を追う。彼本来の、端正な顔立ちが浮き彫りになる――。
自室の隣、通称『仕事部屋』にて、ルイフォンは研ぎ澄まされたような集中力でもって、母の遺産〈ベロ〉と戦っていた。
彼をぐるり囲むように、円形に配置された机には、多種多様な機械類が載せられている。この空間を、メイシアは魔方陣みたいだと言った。彼女からすると、天才クラッカー〈猫〉は魔法使いに見えるのだろう。
メイシアは知らなかっただろうが、伝説に残るようなコンピュータのエキスパートを、俗に魔術師と呼ぶ。だから、なかなかセンスのある発言であったのだが、本当の魔術師は彼ではなく、先代〈猫〉である彼の母キリファだ。
ルイフォンは手を止めた。
そして、溜め息をひとつ……。
使い魔たるコンピュータ〈ベロ〉は、彼の忠実なるしもべ――であるはずだった。
しかし屋敷が警察隊に襲われたとき、〈ベロ〉はルイフォンのプログラムを無視した。キリファが作った人工知能の独断に従った。
母と住んでいた家にある〈ケル〉も同様で、ルイフォンの命令を勝手に書き換えて、メイシアを敷地内に入れた。〈ケル〉はメイシアを知らなかったはずだから、〈ケル〉と〈ベロ〉は結託しているのだろう。
つまり魔術師キリファの死後も、〈ケル〉と〈ベロ〉は彼女の使い魔だということだ。――ルイフォンではなく。
しかも〈ベロ〉は、娼館の女主人シャオリエをモデルにしている。あの口調、あの性格からして間違いない。母も何故、あんな傍迷惑な人格をもとに人工知能を作ったのやら。
おかげで、皆をあれだけ驚かせたのに、本人そっくりの口ぶりで『もう手出ししないから、あとはせいぜい頑張りなさいね』と、しれっと言ったきり説明もなしだ。
だから、あの事件のあと、ルイフォンは必死に人工知能〈ベロ〉の解明に勤しんでいた。その結果、ほんのわずかではあるが、〈ベロ〉の正体が分かってきた。
要するに、ルイフォンが知っていた〈ベロ〉は、いわば『張りぼて』だったのだ。あるいは『影武者』、『隠れ蓑』といってもいい。
真の〈ベロ〉は、別のところに隠れていて普段は何もしない。けれど常に監視の目は光らせていて、必要なときには張りぼての〈ベロ〉を乗っ取る、ということらしい。
「……腹、減ったな」
ルイフォンはOAグラスを外して、机に置いた。
メイシアは今日、ミンウェイとよもぎあんパンを作るのだと、朝から楽しみにしていた。彼女の奮闘ぶりは非常に気になる。しかし、邪魔をしてしまうのは悪いので、ルイフォンはおとなしく仕事部屋に籠もった。そしたら、時が経つのを忘れてしまったのだ。
途中でメイドが昼食を持ってきてくれたが、片手間に食べていたから、料理長自慢のサンドイッチの味もよく覚えていない。だが、量が足りなかったのは確かなようだ。
時計を見れば、もうすぐお茶の時間である。
そろそろメイシアが呼びに来てくれるだろう。きっと、彼女お手製のよもぎあんパンをご馳走してもらえるに違いない。
「……」
腹が減っていた。
たまには自分から行くのもよいだろうと、ルイフォンは立ち上がる。
両手を上げて背筋を伸ばし、腕を回して肩周りをほぐす。首を曲げれば凝り固まった筋肉が悲鳴をあげ、その動きに併せて一本に編まれた髪が振り子のように揺れた。
部屋を出る彼の後ろ姿は相変わらずの猫背で、せっかく伸ばしてもすぐに元の木阿弥だと、毛先を彩る金の鈴が笑っていた。
メイシアは厨房にいなかった。
それどころか、屋敷内にはいなかった。
「ミンウェイ! 何故、メイシアを行かせた!?」
ルイフォンは、ミンウェイに詰め寄った。殴りかかりたい衝動は理性で抑えたが、鋭い殺気は隠しようもなく、彼女のまとう草の香りを霧散させる。
「お祖父様のご命令だったのよ」
「親父の!?」
それを聞いた途端、彼は執務室に向かって走り出した。
草薙家――。
チャオラウの養女の姓を名乗っているから『草薙』だが、つまりエルファンの正妻ユイランの家だ。
『ユイランは――ひょっとしたら鷹刀の誰よりも喰えない相手よ』
ルイフォンの母キリファは、ユイランに苦手意識があった。あの傲岸不遜な母が曲者と認め、なるべく避けていた人物なのだ。
「ふざけんなよ、糞親父!」
メイシアをあの家に行かせる理由が、何処にあるというのだ?
リュイセンが一緒であるというから、生命の危険だけはないと思うが、どんな嫌な目に遭っているか分からない。
階段を駆け上がるルイフォンの尻で、携帯端末が振動した。
この忙しいときにと、電源を切ろうとした彼の目に、発信者の名前が映る。
「リュイセン!?」
この上もなく好都合な相手であり、同時にメイシアの身に不安を覚え、心臓が凍りつく。
震える手で電話を受けると、甲高い声が響いた。
『ルイフォン大叔父上! 大変なの!』
まったく聞き覚えのない、少女の声。
あどけなさを残した可憐さは、まだ子供と言ってもいいかもしれない。だが、今のルイフォンには相手を推察する余裕などなかった。
「誰だ、お前?」
警戒心むき出しで、低く唸る。
『草薙レイウェンの娘、クーティエよ。リュイセンにぃの姪、と言ったほうがいい?』
「リュイセンの姪……? ――ユイランの……孫か!?」
『そうよ。にぃがいつも言っている通り、頭の回転は早いわね』
クーティエは、褒めていた。だが、明らかに年下の少女に褒められて喜ぶようなルイフォンではなかった。
「この野郎! メイシアをどうした!?」
端末を握りつぶす勢いで力を込め、怒鳴りつける。
『だから、大変なのよ! 今すぐ家に来て!』
その言葉の終わらないうちに、ルイフォンは今度は外に飛び出した。
ユイランの――草薙レイウェンの家には行ったことはないが、鷹刀一族に関係のある情報なら、彼はすべて把握している。当然、場所は知っていた。
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