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第8話 星霜のことづけ(1)
キーボード上で忙しなく動かしていた手を止め、ルイフォンはOAグラスを外して深い溜め息をつく。癖のある前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げ、考え込むようにしばらく頭を抑えると、いつもの猫背をさらに丸くしながらその手を力なく下ろした。
少し根を詰めすぎた。頭痛がする。
彼は、回転椅子をぎぃと鳴らして立ち上がった。
ふらつきながら仕事部屋から引き上げ、自室のベッドに体を投げ出す。乱暴なほどの勢いにスプリングが抗議して、彼を強く跳ね返した。
――ユイランから過去を受け取り、為すべき未来が見えてきた。
ルイフォンは、昼間の出来ごとを思い出す。
この先には、まだまだ遠い道のりがある。けれど、確実に前進した。
「糞親父め……」
悪態をつきながらも、口調は決して険しくない。
ルイフォンとリュイセンとメイシアが、ユイランに会う。――すべては、父イーレオの策略だったのだろう。
〈蝿〉に関しては、姉であるユイランから話を聞くのが一番よい。だが、複雑な間柄のルイフォンは勿論、実の息子のリュイセンですら、彼女とは仲が良いとは言い難い。
そんな彼らと、ユイランとの確執を解消するために、イーレオは一計を案じたのだ。
ルイフォンの口元が、にやりとだらしなく緩む。企みの最後を飾った、メイシアのドレス姿を思い出したのだ。
――綺麗だった。
それ以外の言葉は、要らない。
彼が呼び出され、それを出迎えるのが花嫁姿のメイシアである、という筋書きだけは、不確定要素が多かったはずだ。
だが、「大切な手紙は直接、ルイフォンに手渡してほしい」とメイシアが言い出すのは当然の流れ。そして、あのクーティエがいれば、採寸のついでにメイシアにドレスを着せるのも必然だったろう。
完璧に掌の上で踊らされた。
けれど、気分は悪くない。
レイウェンの家から戻ってすぐに、メイシアとリュイセンは、ユイランから聞いた話を教えてくれた。ふたりとも疲れていたであろうに、ルイフォンが早く知りたいだろうと、気遣ってくれたのだ。
そして、今――。
目の前のテーブルの上には、書類の束が載っている。それが、彼の母キリファからの『手紙』だった……。
「は……?」
ユイランから『手紙』を手渡され、ルイフォンは絶句した。
味気ない茶封筒であることは、この際、置いておく。よくよく考えれば、あの母が洒落た封筒など持っていたはずもない。〈七つの大罪〉に身請けされるまで、彼女は文盲だった。手紙をしたためたことなんて、ほとんどなかったはずだ。
だから、問題は封筒の大きさだ。
報告書がちょうど入るサイズである。厚みのほうも、ルイフォンがかなり厄介な案件をまとめたときのものに匹敵する。掌に掛かるずしりとした重みからしても、その封筒はどう考えても『手紙』などではなく『書類』だった。
つまりキリファは、私信というより、何かの事件の報告を息子に託そうとしたのだろう。
電子データで残せばもっとコンパクトであったろうが、記憶媒体に書き込まれた情報は、保存状態によっては、たった数年で自然に消えてしまう。それを危惧して、印刷して紙媒体の形にしておくことは別におかしなことではない。――ルイフォンは、そう解釈した。
手紙らしからぬ『手紙』に、一同が唖然とする中、彼は封を切った。
これをユイランに預けたあと、キリファは亡くなった。正体の知れない者たちに殺されたのだ。その事件の真相が今、解明されるに違いない。
そう考えて、彼の手が止まった。
――え? 俺……?
疑問が、不可思議なざわつきとなって、ルイフォンの心を占めていく。
――おかしいだろ……?
彼は、誰かが情報を与えてくれるのを、おとなしく待っているような人間ではない。
情報は、自分で取りに行く。
それができる能力があると自負しており、それをする人間であるという矜持がある。
それなら何故、四年もの間、母の死について、何も調べようとしなかったのだろう……?
ルイフォンが書類を取り出したとき、彼の意識は半ば以上、自分の内側に向けられていた。外側に割くべき注意力が欠落しており、心理的に無防備だったと言っていい。
だから彼は、不意を衝かれた。
その文字を見た瞬間、思考が止まり、彼の頭の中は真っ白になった。
「……え?」
それは、確かに『手紙』だった。
「――かぁ……さん? ……なん、で……!?」
間抜けな――素っ頓狂な声が漏れる。
書類の束は、印刷物ではなかった。一文字ずつ心を込めて手書きされた『手紙』だった。――ただし、みみずが這ったような、非常に個性あふれる筆跡で。
「これは……暗号か……?」
覗き込んできたリュイセンが、そう言ったのも無理はない。大きくなるまで文字を知らなかったキリファの字は、とても読めたものではないのだ。
いくら練習しても悪筆が改善しなかった彼女は、普段からごく短い文章を書くのにもキーボードを使っていた。そのため、かなり近しい人間でも、彼女の直筆はほとんど目にしたことがない。ルイフォンですら、かろうじて見たことがあるといった程度だ。
つまり彼女の文字は、どんな優秀なクラッカーでも簡単には解読できない強力な暗号――。
「母さんだ……」
衝撃は緩やかに収まり、懐かしさが込み上げてきた。胸が苦しくなり、思わず涙ぐむ。――が、メイシアの前で醜態を晒せるかと、ぐっとこらえる。
『こんなものを読めるのは、あんた以外いないでしょ? 完璧な暗号だわ。我ながら天才ね!』
母の高笑いが聞こえた。やたらと偉そうな、彼を小馬鹿にした口調。幾つになっても、子供のような無邪気で残忍な、いたずら心をなくさない、実力だけは一級の魔術師。
彼女にとって、文字を書くことは苦痛だ。キーボードで打てば一瞬なのに、一文字一文字を綴ることが如何に大変か。
ルイフォンは、母に畏敬の念を……。
「ちょっと、待て! これ、俺が解読するのか!?」
さぁっと音を立てて、血の気が引いていく。
紙の厚みから、その莫大な労力を考えて呆然とする。これではルイフォンにとってさえも、計算量的安全性を持つ暗号だ。たとえ、画像として処理して〈ベロ〉に解析させるとしても、母の手書き文字のサンプルが少なすぎる。正答率は高くないだろう。
「無謀だろ! 非効率だ。現実的でない……!」
『あたしがこれだけ苦労して文字を書いたんだから、あんたも苦労しなさい』
彼とそっくりな猫のような目を細め、彼女はにやりと口の端を上げる。そして、息子の前髪をくしゃりと撫でた。――そんな幻影が見えた。
決して、冗談や嫌がらせなどではあり得ない。常人なら阿呆だろ、と一笑に付すような手間を掛けて、彼女はこれを書き上げたのだから。
――まったく。母さんらしい。
あの常識はずれの破天荒。母親らしいことなんて、ひとつもできなかった彼女。
けれど、彼が敬愛していた孤高の〈猫〉……。
「で、それはいったい、何が書いてあるんだ?」
リュイセンがもっともな質問をしてきて、ルイフォンは現実に引き戻された。愛すべき悪筆に、げんなりしながらも、彼は書類の一枚目に視線を落とす。
『ルイフォンへ』という書き出しは、そこそこすんなりと読めた。だが、その先の文章の解析には、しばらくの時間を要した。
そして、この書類の目的を理解した刹那――。
彼は瞠目した。
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