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第8話 星霜のことづけ(3)
とんとん、という控えめなノックの音に、ルイフォンはベッドを飛び起きた。
メイシアだろう。
話したいことがある、と彼女は言っていた。
どことなく思いつめた様子に見えたのは、昼間の――ユイランから聞いたことと関係があるからに違いない。
表情のすぐれない彼女が心配で、今すぐ話してほしいと迫ったのだが、申し訳なさそうな顔で断られてしまった。夕方から夜に掛けて忙しくなるメイドたちの手伝いをしたい、とのことだった。
メイシアは、この屋敷の正式なメイドではない。けれど、メイドの仕事に責任と矜持と、そして喜びを感じているらしい。そんな彼女のことは誇らしいし、尊重したいと思う。
だから、手伝いが終わったら、と約束していた。仕事部屋か自室のどちらかにいるから、と。
遠慮がちに扉が開かれ、メイシアが顔を覗かせた。
片手で器用にトレイを持ち、片手でドアノブをひねっている。少し前の彼女には出来なかった芸当だ。
無精者のルイフォンは部屋の扉に鍵は掛けないし、ノックされたところでまず出迎えることはない。気にしないから勝手に入ってきてくれ、という姿勢である。
育ちの良いメイシアは初めこそ戸惑っていたが、今ではすっかり慣れっこになっていた。
「ルイフォン。寝ていたの?」
ごめんなさい、と言わんばかりの、首をすくめた上目遣いで彼女はテーブルにトレイを置く。そこには、彼が食べはぐっていた、よもぎあんパンが載っていた。
夜食にと持ってきてくれたのだろう。温め直してくれたのか、ほんのり湯気が立っている。その気遣いが嬉しい。
「いや、頭がパンクしかけたから、横になっていただけだ」
寝転がっていたためか、いつも以上にくしゃくしゃになっている癖っ毛を乱暴に手で整えながら、彼は席に着いた。
濃いめの緑茶を淹れるメイシアの、すっかり手慣れた動きを頼もしげに眺める。よもぎあんパンの皿はひとつしかないから、夜食が入り用なのは彼だけのようだ。
遠慮なく手を伸ばし、「美味い」と率直な感想を言うと、いつの間にか真剣な眼差しで彼を見つめていた彼女の顔が、花のようにほころんだ。彼の胸にも、優しい温かさがふわりと花開く。
「メイシア。今日も一日、お疲れ様」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
彼女は驚きに瞳を瞬かせ、そして照れたように頬を染める。
「ありがとう。ルイフォンも、お疲れ様」
「ああ、そうだな。俺も、凄く疲れた」
ルイフォンは微笑み、猫のようにぐっと伸びをする。金色の鈴が、彼の背中を滑った。彼らをひやかしているようでもあり、見守っているようでもある。
「どうしたの? 急に」
「『お疲れ様』ってさ、いい言葉だよな。なんか、無性に言いたくなった。――というか、こういうのは毎日、言うべきだな」
とても些細なことだけれど、毎日、頑張っている彼女に感謝と労いを――。
今まで気づかなかったのが、愚かしい。まだまだ未熟者だと痛感する。
そんなことを考えたのは、メイシアの花嫁姿を見たからだろうか? 日々、互いを認め合って生きていきたい、そう思ったのだ。
柔らかな顔で目を細めるルイフォンを、メイシアは不思議そうに見つめている。
和やかなひととき。永遠に続いてほしい時間。
――けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。
この雰囲気を壊すのは本意ではないが、彼女が改まって『話がある』というほどの何かがあるのだ。
おそらく、あまり良いことではないのだろう。彼女の口が緊張で固まってしまうよりも前に、彼のほうから水を向けるべきだった。
「それで、話というのは?」
メイシアの表情が、一瞬にして凍りついた。そうなると分かっていたので、ルイフォンは何気なさを装い、平然を保つ。
彼女はうつむき、手の中の湯呑みに視線を落とした。
「私……、ルイフォンに、謝らなければいけないの……」
「謝る?」
予想外の言葉に、彼はおうむ返しに尋ねる。
「以前、私がルイフォンに『隠しごとはしないで』って、言ったの。覚えている?」
「え? あぁ……? ……すまん。まったく覚えてない」
ルイフォンが困ったように前髪を掻き上げると、「そうだと思った」という苦笑混じりの声が、メイシアの湯呑みに緑色のさざ波を立てた。
「私が鷹刀に来た翌日、『私の実家が斑目と裏取り引きをしていた』という情報をルイフォンは隠したの。私が傷つかないように、って。でも、私はシャオリエさんを通して知ってしまって……」
「それで、『隠しごとはしないで』か?」
こくりと、メイシアが頷く。
「身勝手な、一方的なお願いだったと思う。あのときの私たちは、まだ他人も同然だったのに。でも私は、あのときからルイフォンを好き……」
メイシアが、はっと息を呑んだ。
顔は伏せていても、黒髪の隙間から白い耳朶が染まっていくのがはっきりと分かった。顔はもっと真っ赤になっていることだろう。
「あっ、あの……。今、言いたいことは、そういうことじゃなくて……」
自分で言っておきながら、慌てふためくさまが可愛いらしい。
「ありがとな、嬉しい」
顔のにやつきが止まらない。恥ずかしがり屋のメイシアは、めったに甘い言葉を口に出してくれないから――。
もともと、彼が半ば押し切るようにして、無垢な貴族の彼女をかっさらった、という自覚がある。決して無理強いをしたつもりはないが、自信家のルイフォンだって、たまには不安になる。だから、青天の霹靂だった。
浮かれ気分のルイフォン。――しかしメイシアは、彼の楽しげな様子を全力で否定するように、激しく首を横に振る。
「ごめんなさい、ルイフォン。本当に、ごめんなさい」
「どうしたんだよ?」
「私、ルイフォンには『隠しごとしないで』と言ったくせに、私自身が隠しごとをしたの」
脅えた小鳥のように体を丸めるメイシアを、ルイフォンは困った顔で見つめた。
どうせ彼女のことだ。隠しごとなどと大げさに言ったところで、彼にとっては本当にどうでもいいような、極めて些細なことに違いない。
「別に俺は気にしないけど、とりあえず言ってみろよ。そうすれば、すっきりするだろ?」
苦笑交じりのルイフォンに、メイシアが頷く。
「……ルイフォンに内緒で、イーレオ様とお話したの」
「え?」
「キリファさんが亡くなったあとのルイフォンの行動に、違和感があったの。――ルイフォンが、お母様の仇を探そうとしなかったことが、私には奇妙に思えたから」
「……っ!」
ルイフォンは耳を疑った。まるで想像もしなかった話が、メイシアの口から流れ出ていた。
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