17人が本棚に入れています
本棚に追加
第8話 星霜のことづけ(4)
「私は、キリファさんが〈天使〉の能力を使って、ルイフォンの記憶を改竄したのではないか、って考えた。ルイフォンが危険に走らないようにするために、お母様のキリファさんは、息子であるルイフォンの復讐心に蓋をした。――そのことに関して、イーレオ様にご意見を伺ったの」
ルイフォンの唇は、驚きの形を保ったまま動きを止めていた。
母の『手紙』を受け取ったとき、彼もまた母の死の真相を調べようとしなかった自分に、違和感を覚えた。その疑問が氷解していく。
「イーレオ様も、おそらくそうだろう、って」
「そう、か……。でも、どうして母さんは……?」
それはメイシアに尋ねても仕方のない質問のはずだった。けれど聡明な彼女は、その答えも既に考えついていた。
「亡くなる直前のキリファさんがルイフォンの記憶を改竄したのなら、それはつまり、ルイフォンは見てはいけないものを見たんだと思う」
「俺は、母さんの仇の顔を見ている……!?」
「たぶん……。そして、イーレオ様はキリファさんを殺害した相手を知っている。けれど、イーレオ様には簡単に手を出せない相手で、手を出しあぐねている間に別の人が殺したって……」
「なんだよ、それ!? 何処のどいつだよ!」
母の仇と、その仇を殺した相手。知らない情報が錯綜し、ルイフォンを翻弄する。
「ごめんなさい。教えてもらえなかったの。イーレオ様は、『触れてはいけないものに、触れてしまう』って」
「どういうことだ!?」
ルイフォンは眦を吊り上げた。しかし、メイシアは苦しげに首を振る。
そして、彼女はゆっくりと顔を上げた。
長い黒髪が、さらさらと流れた。蒼白な表情があらわになる。いつもは凛と美しい黒曜石の瞳が、心細げに揺れていた。
「イーレオ様は『俺は〈神〉には逆らえない』とも、おっしゃった。それって、つまり……」
メイシアは一度、息を止め、それから一気に吐き出した。
「――イーレオ様が〈悪魔〉だ、ってこと」
「!」
「イーレオ様のお話を繋ぎ合わせると、キリファさんは〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉という人に殺された。そして、〈悪魔〉のイーレオ様には仇を討てなかった――そういうことになるの……」
言葉を、失う。
かつて、母キリファが言っていた。
――〈悪魔〉は『契約』によって〈神〉に逆らえない。『呪い』が掛けられているから……。
今なら『呪い』の正体が分かる。〈天使〉による脳内介入――逆らえば、捕虜にした巨漢のように死を迎えるということだ。
「記憶の改竄は、キリファさんの思い――願いだから、ルイフォンには隠しておくべきだと思ったの」
「メイシア……」
「でも、ひとつ隠しごとをしたら、イーレオ様とお話したことを――イーレオ様が〈悪魔〉と気づいたことも、隠さなくていけなくて。そうすると、その先も、きっともっと……。そんなの嫌。私はルイフォンには隠しごとをしたくない……」
メイシアの細い指が、こぼれかけの涙を拭った。
彼女はうつむき、長い黒髪がテーブルに落ちる。さらさらと、顔を覆い隠していく。けれど小刻みに震える肩が、彼女の泣き顔を如実に語っていた。
ルイフォンはそっと席を立った。メイシアの背後に回り、すべてを包み込むようにして彼女を抱きしめる。
腕の中にすっぽりと収まった彼女の体が、動きを止めた。けれど、それは安堵のためではなくて、緊張からくるものだと、筋肉の強張りから知ることができる。
「ルイフォン……。私はずるい、汚い。思っていることをすべて打ち明ければ、こうしてルイフォンに抱きしめてもらえるって、信じていた。そんなこと、考えていたつもりはないのに、でも、心の何処かで絶対に思っていた」
ルイフォンは口元をほころばせ、メイシアにほんの少しだけ体重をかけた。頼るように、甘えるように、寄り添うように……。
そして、静かにテノールを響かせる。
「別に、それでいいんじゃないか? お前がそれだけ思いつめていることに、俺はちっとも気づかなかった。だから、これは俺の後悔と感謝。結局のところ、お前が俺のことを好きだってだけだろ?」
メイシアの華奢な肩が更に小さく縮こまり、細いうなじがわずかに首肯する。彼女の小さな意思表示をしっかりと受け止めたルイフォンは、猫のような目をにやりと細めた。
「ああ。でも、お前は気にしているようだから、罰は与えておこう」
「え?」
急に声色の変わったルイフォンに、メイシアが身構える。けれど、彼は容赦しない。黒髪に顔をうずめ、首筋に唇を這わせながら耳たぶを探し出す。
柔らかな耳朶を軽く噛み、声すら出せずに固まっている彼女にそっと囁いた。
「俺のことが好きなら、ちゃんと口に出して好きだと言ってくれ」
華奢な体が、びくりと震えた。
彼女の首元に回った彼の手に、白い手が触れる。彼にしがみつくかのように、細い指先に力がこもった。
「……す、好き。ルイフォンが、好き」
「俺も、メイシアが好きだよ」
彼女の全身がかっと熱を持つのが、服越しにもはっきりと分かった。上気した肌が妖艶な香りを放ち、彼を眩惑する。高鳴る鼓動の波が響き渡り、彼も共に揺られていく。
彼女が腕の中にいる興奮――けれど、心地の良い安らぎ。相反するはずのものが同時に存在する。それが、彼にとっての彼女だ。
「ずっと、ひとりで考え込んでいたんだろ? 辛かったな」
ルイフォンは、メイシアの黒髪をくしゃりと撫でる。
「ごめんなさい……」
「謝ることないだろ?」
「…………どうして、イーレオ様はっ……!」
震えるメイシアに、ルイフォンはくすりと笑みをこぼした。イーレオが〈悪魔〉だと知れば、彼女なら心を痛め、悩み、ふさぎ込んでしまうのも当然だ。
けれど、彼には父の思考が理解できた。
「昔の鷹刀を考えれば、親父なら迷うことなく〈悪魔〉になる。俺が同じ立場でも、そうするからな」
「えっ!?」
メイシアの体が跳ねる。
「〈悪魔〉になって内部にいたほうが、〈七つの大罪〉の情報を手に入れやすいからだ。奴らのことを詳しく知らなければ、奴らにどう対処したらいいのか分からないだろう?」
「あ……!」
「かといって、慕ってくれる部下に〈悪魔〉と知られたら、裏切られたと思われるかもしれない。だから、親父は秘密にしていたし、今も秘密にしている。そんなところだろう」
「あぁ……」
触れ合った体から、メイシアの心がほぐれていくのが分かる。
「まったく、親父も酷ぇな。母さんが〈天使〉だ、って話が出たときに、自分のほうは〈悪魔〉だと、言ってくれりゃあよかったのに。なんで黙ってやがった、あの糞親父!」
変に隠したせいで、メイシアを不安にさせたのだ。吊し上げの機会を設けてやる、とルイフォンが息を巻く。
そんな彼に押されながら、メイシアはおずおずと口を開いた。
「イーレオ様が黙ってらしたのは、そのときの私たちが『昔の鷹刀』を知らなかったからだと思う。私たちに疑惑の目で見られたくないから……。だから、あのお話のあと、イーレオ様は私をユイラン様に引き合わせたの。……たぶん」
「なるほどな」
思えば、過去の鷹刀一族のことは、父イーレオをはじめ、年寄り連中はあまり言いたがらない。思い出したくないのだろう。だから、隠す。
その頑なな気持ちを、メイシアが動かした。何を言ったか知らないが、彼女の言葉が父の心を動かしたのだ。
――さすが、俺のメイシアだ……。
彼女が落ち着いてきたようなので、ルイフォンがすっと一歩離れれば、その背には見えない翼が見えた。
鳥籠の中しか知らなかった彼女は、この翼を懸命に羽ばたかせ、すべてを捨てて彼のもとに飛び込んできてくれた。そして今も、彼と、彼の大切にしている者たちのために心を砕き、翼を広げて守ろうとしてくれている。
彼も、彼女の家族を大切にしたいと思う。近いうちに、ハオリュウに花嫁衣装の礼を言いに行きたい。それから、メイシアの継母のお見舞いにもまた行きたい。
けれども、その前に――。
彼は、『彼のもうひとりの家族』のことをメイシアに言わなければならなかった……。
最初のコメントを投稿しよう!