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幕間 三眠蚕の貴公子(2)
貴族の顔を拝んでやるべく、私は外壁の上に登って待っていた。塀よりも高く伸びた木の陰に、そっと身を潜める。
ほどなくして遠くからエンジンの音が聞こえてきて、門の前に黒塗りの車が止まった。
スモークガラスで中は見えないけど、問題の貴族に違いない。
胸が高鳴る。
曽祖父上が気に入った相手で、祖父上が利益があると認めた相手だ。――ひと癖ある、喰えない切れ者ってところだろうか?
運転席から制服姿の運転手が降りてきた。ぐるりと後部ドアに回り、主人の貴族ために扉を開く。
そして、まず一番に出てきたのは……。
――杖の先?
老獪な狸爺タイプだったかと納得しかけたとき、私は車から降りてきた彼を見て、目を疑った。
「えっ!?」
思わず、声が出た。
その刹那、彼ではなく運転手から殺気がほとばしる――!
運転手は振り向き、主人を背に守るようにして私がいる方向を睨みつけた。
目付きの悪い凶相で、中肉中背の、どちらかといえば貧相な男。運転手の制服を着ていても、本業は違うことは明らかだ。
目と目が合った。
射殺そうとでもするかのような、鋭い三白眼。
思わず体が引けてしまい、私はバランスを崩す――!
「……っ! え? ……きゃっ……!」
そのまま道路に向かって、お尻からどしん……なんて、みっともないのは絶対に嫌!
私は膝を曲げ、ふわりと綺麗に着地を決めた。
かがんだ私の背の上を、ふたつの気配が抜けていく。むき出しの警戒心と、緩やかな微笑の息遣い――。
「彼女は違いますよ」
耳に残る、柔らかなハスキーボイス。
私に言っているのではない。彼が運転手を制したのだ。
私は、ぱっと顔を上げた。彼は、どう見ても私より少し年上かな、ってくらいの……子供だった。
「あなたが『お客さん』……?」
彼の全身を舐めるように見渡す。
あとから考えれば、貴族に対して無礼だと、難癖つけられても仕方ないような不躾な目つきになっていたと思う。でも、そのときの私にはそんなこと考える余裕はなかったし、彼も何も言わなかった。
彼は、仕立ての良いスーツを完璧に着こなしていた。けれど、まっすぐには立てない。杖を持つ手に重心が寄っている。――足が悪いのだ。
「はじめまして」
透き通るような極上の笑みが、彼からあふれ出た。なのに、その瞳は深い闇の色をしている。
彼は、片足を庇うようにして私に近づいてきた。
「私は、藤咲家当主、藤咲ハオリュウと申します」
杖を支えにしながらも、彼は優雅に頭を下げる。
舞い手である私からすれば、杖に頼らなければならない彼の動きなど、気に留めるようなものではないはずだ。
でも私の目は、彼の一挙手一投足を追っていた。
「失礼ですが、草薙レイウェン氏のご息女、クーティエ嬢でしょうか?」
「そ、そうよ」
何故か、声が上ずった。
「ああ、やはりそうでしたか」
ハオリュウが、にこやかに口元をほころばせると、華やぎが広がる。私とたいして変わらない子供のはずなのに、堂々たる風格を感じた。
曽祖父上とは違う――でも、どこか通じる王者の威厳。
私はとんでもない相手と対峙しているのだと、直感的に悟った。
「今日は、お忙しいあなたのお父様に、無理を言ってお時間をいただきました。お取り次ぎ願えませんか?」
「あぁ――!」
彼の言葉の後ろのほうを、私はまともに聞いていなかった。重大なことにやっと気づいたのだ。
「藤咲って、鷹刀と協力した貴族ね!」
「ご存知でしたか」
「この前、ミンウェイねぇがうちに来て、いろいろ教えてくれたの。――あっ!」
私は顔色を変えた。
ハオリュウの足が不自由な理由も、彼がお父さんを亡くしていることも、私は全部、聞いていた。
ミンウェイねぇが彼に何もしてあげられなかったと悔いていたことも、彼がすべてを背負うような形で事件を収めたことも、何もかも……。
そして彼は、たった十二歳で孤独な当主となった。
鷹刀の屋敷を去るときの彼は、出会ったときとは別人のようだったと、ミンウェイねぇは言っていた。
「あなたはミンウェイさんと仲が良いんですね」
懐かしむかのように、彼が目を細めた。
空気が、ふっと和らぐ。彼の瞳の闇が、少しだけ薄くなった。
「その顔のほうがいいわ!」
「え?」
「だって、さっきまでのあなた……」
なんて言えばいいんだろう?
彼は貴族の当主だ。藤咲家は王家に連なる名家で、彼は女王陛下の再従姉弟にあたる。たとえ子供でも、普通の人と同じじゃいけない人だ。
彼の振る舞いは、彼の立場にふさわしかった。私は目を奪われ、心惹かれ……たぶん、萎縮した。
――それはきっと、寂しいことだ。
ミンウェイねぇの話に影響されているんだ、って分かっている。けど、なんか悲しいな、って思う。
言葉を詰まらせた私の顔を、ハオリュウがじっと見つめていた。再び闇が濃さを取り戻そうとしている。拒絶の黒だ。
「……『偉そう』だった」
彼の心を引き留めようと、私の口をついて出た言葉は、そんなどうしようもなく失礼なものだった。
「……えっ?」
「だから、さっきまでのあなた、偉そうだったのよ!」
彼は、驚いたように目を見張っていた。でも、言っちゃったからには、あとには引けない。
「父上に会うんでしょう? 父上は、偉ぶった子供なんか好きじゃないわ!」
彼の表情が揺れた。彼の闇がふわっと緩み、溶けて淡く霞んでいく。
私は、ここぞとばかりに畳み掛けた。
「だって、よく考えてよ。あなたのお異母姉さんは、鷹刀の、ええと……」
リュイセンにぃが『弟分だ』って言っている、あの人はなんていうんだっけ? 会ったこともない親戚だから、とっさに名前が出てこない。
「ルイフォンですか?」
ハオリュウの声が、すっと声を挟み込まれた。
その顔に、どきりとした。――優しげなのに、挑戦的。でも、何処か嬉しそう。
だから、分かった。彼はルイフォンが好きなのだ。
大事なお異母姉さんを奪った男だから、勿論、単純に好きってわけじゃないと思う。
だけど、きっと気持ちよく負けを認めた相手。悔しさはあるけど、心からお異母姉さんを託したんだって分かる。
「――つまり! あなたは草薙とは親戚なの。そんなこましゃっくれた態度、よくないわ!」
彼は孤独だけど、誰よりも人が好き。
彼は孤独だから、誰よりも人が好き。
お節介かもしれない。私なんかより、ずっと『凄い』人だって分かる。でも私は、彼を放っておけないと思った。
私はまっすぐに彼の目を捉え、にっこりと、できるだけ可愛く見えるように笑った。
彼は、初めは私の剣幕に押されていた。けど軽く目を伏せて、小さく何か呟いた。ちゃんと聞き取れたか自信がないけど、たぶん、こう言ったんだと思う。
「気負い過ぎていたな」
そして彼は、ほんの一瞬だけ口の端を上げた。
それは華やかな笑みではなくて、きつくて強くて鋭くて。人当たりの良さをかなぐり捨てた、彼の素顔。
――本当はそんなに、愛想のいい人じゃないんだ。
でも、ずっと自然で……格好いい。
「ようこそ、我が家へ」
家に向け、私は舞うときのように、ぴんと手を伸ばす。重い直刀を持っているわけでもないのに、私の腕は小刻みに震えていた。
「ありがとうございます」
今までとは少しだけ違う、優しい彼の微笑み。
彼が、杖をつく。
柄を握る手が、きらりとした。なんだろう、と思って目を凝らすと、貴族の当主の証である指輪が、陽の光を弾いて輝いていた。
――き、気にしない。気にしないことにする!
「案内するわ!」
吹っ切るように、私は元気よく叫んだ。
……そういえば、彼がなんの用で来たのか、私はまったく知らなかった。
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