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第2話 猫の系譜(3)
「親父、正直に答えてほしい。――母さんは〈天使〉だったんだろう?」
ルイフォンの問いかけの余韻が消えると、執務室はしんと静まり返った。
空調から流れる送風の音だけが、部屋の中を淡々と抜けていく。快適なはずの涼気はひやりと肌を刺し、皆の心から熱を奪う。
イーレオの美貌は、かすかに口を開いたまま凍りついていた。
父のこんな顔をルイフォンは初めて見た。
それだけで、答えは充分だった。
「ぁあ……」
身を乗り出すようにして構えていた姿勢から、ふっと力が抜けた。彼の上半身は、そのままソファーに投げ出された。
母は〈天使〉だったのではないだろうか――。
ルイフォンは、その疑念をまず初めにメイシアに打ち明けた。
誰にも聞かれないよう、わざわざ昔、住んでいた家――〈ケル〉の置いてある家にまで足を運んだ。そこまでしなくとも屋敷の住人たちは、立ち聞きなどという悪趣味な真似はしないのは分かっていたが、完全にふたりきりになりたかったのだ。
「……メイシア、俺の母さんは〈天使〉だったんじゃないかな」
ルイフォンは、静かにそう言った。
ふたりきり――声をひそめる必要はない。けれど、彼のテノールは密やかで、なのに普段よりも低く響いた。
メイシアは黒曜石の瞳を見開いた。その表情で、どうしてそんなことを考えたのかと問うていた。
「ええとな……」
ルイフォンは前髪を掻き上げ、少し考える。
「別に隠していたわけじゃないんだが、筋道立てて説明するためには、お前に言ってないことが多すぎるな」
呆れるくらい、あっという間に、彼女は彼のもとに飛び込んできてくれた。だから、彼女は彼の背景をほとんど知らない。
彼女の人生は本当にこれでよかったのか、今更ながら疑問に思ってしまう。けれど、彼女を手放すつもりもなければ後悔させるつもりもないので、それは訊かないことにする。
ルイフォンはメイシアを見つめ、ためらいがちに口を開いた。
「……俺の母さんは、もと娼婦だった」
「え?」
「母さんが〈七つの大罪〉にいた、ってのは知っているよな。でも、その前の話だ」
「……っ」
メイシアの喉がこくりと動き、唾を呑み込んだのが分かった。
彼女自身、父と異母弟を救うため、一度は娼婦となることを決意した身だ。偏見の意味合いはないだろう。しかし、それでも動揺するのは仕方ない。
「母さんの母親も娼婦で、つまり母さんは娼婦と客の間に生まれた子供だった。――だから、生まれたときから生粋の娼館育ち。物心ついたときには既に実の母親は病死していて、同じ店の娼婦たちに育てられたと言っていた」
「……」
言葉なく、メイシアの瞳がルイフォンを映す。
「ごめんな。俺は、お前みたいに綺麗な出自じゃない」
「何を言うの!」
彼女は叫んだ。
唇をわななかせ、距離を縮めようとでもするかのように、彼にしがみつく。
「ああ、分かっている。お前は差別の目で見るような奴じゃない」
けれど、改めて口に出すと、天と地ほども違う相手だったのだと再認識せざるを得ない。いつもの彼なら、そんな彼女とこうして一緒に居られることに喜びと幸せを覚えるのだが、今は引け目が双肩にのしかかっていた。
陰りの出たルイフォンの顔を、メイシアが眉を曇らせ、覗き込む。
「ええと、あの……。あのね、ごめんなさい」
いったい何に対して謝っているのか。おそらく彼女自身もよく分かっていないだろう。
「お前は何も悪くないだろ?」
ルイフォンは努めて明るい声でそう言うが、メイシアは大きく首を振る。
「私、ルイフォンのことを知りたい。……周りの人のほうが、ずっとずっと、ルイフォンのことに詳しいの。それって凄く……悔しい……」
彼女は、ぎゅっと彼の服を握りしめる。言葉の最後のほうは、消え入りそうになっていた。
きついことは言わないので、それと分かりにくいが、これでいて実は結構、彼女は嫉妬深い。そう思ったとき、憑き物が落ちたかのように、すっと肩のあたりから楽になった。
ルイフォンは、メイシアの背に腕を回し、彼女の肩に顔をうずめる。
「お前は可愛いなぁ」
「ル、ルイフォン!?」
「うん。そうだな。細かいことは気にしない」
狐につままれたような顔をする彼女に笑いかける。
そして彼は、ゆっくりと話を再開した。
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