第一章

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第一章

物心がついたとき、カナタは馬小屋で働いていた。両親と呼べる人はいなかった。大人たちはいたけれど、あれをしろとかこれをしろとか言われるだけで、頭を撫でてもらったり、笑顔を向けてもらうことはなかった。お屋敷ではいつも大勢の人がお館様を取り囲んでいたけれど、奥様を見かけることはほとんどなかった。奥様は離れにお子さんたちと住んでいると聞いたことはあったけれど、カナタも含め、忠誠なるジョゼ以外の人が離れに行くことはまずなかった。 カナタは朝起きるとまず水を汲みに川まで出かけた。川までは遠かった。景色を楽しむ余裕などなかった。右と左に大きなバケツがぶら下がった竿を肩にかけ、遠い川まで行って、屋敷まで戻って来なければならなかった。晴れの日も、雨の日も、風が強い日もカナタが水を汲まなければならなかった。寒さで手がかじかむこともあった。暑さで全身に大粒の汗をかくこともあった。水汲みが終わると屋敷の人たちの食事の準備を手伝い、それが終わると片付けもしなければならなかった。みんなが仕事へ出かけてからやっとカナタは遅めの朝ごはんを細々と摂ることができた。食事は一日三回は与えられた。馬小屋の隅に、空き箱を逆さまにしたテーブルがあって、パンとスープは毎回与えられた。お腹いっぱいになったことはなかったけれど、ひもじい想いをすることもなかった。その後は馬小屋の掃除、馬たちの世話、屋敷の掃除、畑仕事、買い物などなど朝から晩まで、毎日毎日、休息を取る時間などなく、朝起きてから夜眠るまで働き詰めた。 馬たちはやさしかった。鼻息が荒く、恐ろしく思われることもなかった訳ではないけれど、概して温厚で、その美しい毛並みでカナタを包んでくれることもあった。カナタは時折、馬たちに取り囲まれ、そのやさしい匂いに包まれ、あたたかな毛並みで覆われると、涙が頬を伝うのに気づいた。そんなとき、藁葺の屋根の隙間から垣間見える星々はなお一層煌めいていた。 あるときカナタは本を拾った。ボロボロの擦り切れの本だったけれど、読みを覚え、字の書き方を覚えた。何度も何度も繰り返して、それを読み、声に出して読んでみて、指でなぞって、地面に、壁に、指の腹から血が出るまで書いた。それから勉強に勤しんだ。眠る時間は増々減ったけれど、カナタは喜びを覚えた。空想することを知り、夢見ることを知り、心は大空を舞うことさえあった。大人たちは相変わらずあれをしろとかこれをしろとか、カナタの時間はすべて奪ってやろうと言わんばかりに、馬たちの世話ばかりではなく、畑仕事も、町への買い出しも、屋敷の掃除もなにもかも、カナタは一時として休むことなく働き詰めた。 今度は剣を与えられた。目の前には白銀の甲冑を纏った戦士がいた。カナタは買い物を言いつけられて、村から遠く遠く町まで出て、城下町に差し掛かる門のところまで来ていた。戦士はカナタの背よりも大きく太い、柄のところに黄金の蛇が交わる模様のついたその美しい剣をカナタの前に差し出した。カナタはそれをなんと思うこともなく、両手でつかむと、右手をスッと引いただけで、鞘からその大きな剣を抜いた。カナタが右手に抱えたその剣は、半月の形と化し、町の人々はその煌めく刃を見るだけで恐れおののき、カナタの前にひれ伏した。カナタに剣を渡した白銀の甲冑を纏った戦士さえもひれ伏していた。 「あなたこそ、まごうことなきアタナク様。伝説の勇者エバルブの失われたご息子。」 そう言って、その戦士は額を地面にこすりつけるようにひれ伏した。
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