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みやんじょ
かつて、列車の汽笛が木霊していた山里は、今は閑散としている。
昭和の終わりまで、水俣駅から栗野駅まで走っていた山野線。
水俣市から伊佐市を通り湧水町まで走り、肥薩線と合流していたのであった。
1937年(昭和12年)12月12日 久木野駅から薩摩布計駅間 (8.3km) を延伸開業し、山野西線と山野東線を合わせて山野線となたが、1984年(昭和59年)6月22日 、第2次特定地方交通線として廃止承認する。
1986年(昭和61年)11月1日には、 全線 (55.7km) の貨物営業を廃止した。
そして、1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化に伴い、日本国有鉄道から九州旅客鉄道に承継するも、1988年(昭和63年)2月1日 には、全線 (55.7km) を廃止し、地元の南国交通と九州産交バスのバス路線に転換された。
その山野線沿いの薩摩大口駅から川内駅までの奥薩摩を縫うように走っいたのが宮之城線である。
今の伊佐市からさつま町を抜けて薩摩川内市へと走っていたのだ。
地元では、“みやんじょ”線と呼ばれていた。
国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線に指定されて、国鉄分割民営化を約3か月後に控えていた1987年(昭和62年)1月10日に全線廃止となったのである。
その名残は、各駅跡を一部公園化したり、旧宮之城駅には、当時を忍ばせる遺品が飾ってある。
薩摩永野の駅舎跡は、今も当時を忍ばせている。
幾多の旅人が行き来し、学生たちが学び舎へと通い、郷の人達の足として活躍した路線。
この宮之城線も、昭和が終わりを告げる頃、国鉄の民営化を待たずして廃線となった。
色々な想いが走馬灯のように今も駅舎跡に甦る気がしてならない。
いつの世も、時代の流れには逆らえないのが世の常である。
一時代を築いた“みやんじょ”線も、そんな時代の流れにポイントを切り替えられ、廃線へのレールをひた走ることになろうとは、薩摩永野駅も知る由もない無かったであろう。
踏切の跡が切なそうに昔がたりをしている気がするのであった。
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