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その男性の佇まいは、僕の予想を大きく裏切るものだった。
仕立の良いグレーのスーツに包まれた細身の身体は百八十センチを越えているのだろうし、その年齢は三十を少し過ぎたくらいなのだろう。
短めに刈り込まれた黒々とした髪の毛は整髪料でツンツンと立てられていた。
すっきりとした面長の顔にはフレームレスの眼鏡が掛けられていた。
その眼鏡の奥に在る切れ長の目は何とも涼やかで、いかにも知性を湛えているといった雰囲気だった。
野暮ったさや胡散臭さ、はたまた年寄り臭さなどは微塵たりとも纏っていない、むしろ才気に満ちた印象を与える溌剌とした男性だった。
その男性は腰ほどまでの丈の無骨な黒いスーツケースを引っ張っていた。
スーツケースを入口近くに置いたその男性は、僕の前へと音も無く歩み寄って来る。
思わず狼狽える僕の目の前にて、その男性は何時の間にか取り出した名刺を捧げ持つようにして差し出して来た。
淀みの無いその立ち居振る舞いは、実に洗練されているように感じられてしまった。
「お初にお目に掛ります、小島さま。
齋藤と申します」
小さく会釈したその男性は、僕の顔を覗き込みつつそう告げた。
その端正な顔に柔和な微笑を浮かべながら。その大きさこそ控えめであるものの、彼の声は実に良く通るものだった。
卵オヤジの無遠慮なものとはまるで異なるその声音は、僕を更に狼狽えさせる。
「あ、はい……」などと曖昧な言葉を返しつつ、僕は両手を差し出して彼の手から名刺を受け取る。
受け取った名刺に視線を落とした僕は、呆気に取られたような思いを抱かされてしまう。
横書きの名刺の中央には『齋藤 雅行』というその名前が大きめの明朝体のフォントで記されている。
問題はその左上の部分だった。
普通、名刺の左上には会社名や役職などが記されているものだろう。
けれども、齋藤さんから受け取った名刺の左上には、明朝体のフォントで『卵』とだけしか記されていなかったのだ。
僕の困惑を察したのか、齋藤さんは柔和な口調にてこう語り掛けてくる。
「そうですよね……。
やっぱり『卵』だけだと戸惑われてしまいますよね」
内心の戸惑いを見透かされたように思った僕は、気恥ずかさを誤魔化すようにして、「はい、失礼ながら……。随分と珍しいですよね」と、努めて落ち着いた口調にて言葉を返す。
アハハッと小さく笑い声を上げた齋藤さんはこう語る。
「ですよね。
本来だったら会社の名前とか肩書きなどをそこには書くべきなんでしょうね。
でもね、そうするとクライアントの方々の中には、そちらに意識が行ってしまわれる方がおられるんですよ。
私どもの組織がこういった活動をしていることを意外に思われる方がおられたり、あるいは私の肩書きがけっこう珍しいもので職務の内容に興味を持たれたりと、『卵』以外のことに話が脱線してしまうことがあったんですよ。
だけど、そういうのって勿体ないですよね。
私がこうやって皆様にお目に掛るのは『卵』のためであるわけですし」
そういう考え方もあるんだと納得めいた思いを抱いた僕は小さく頷いてみる。
応えるように小さく頷いた齋藤さんは話を続ける。
「これからの三十分間はね、もう兎に角、小島さまには卵のことだけを考えて欲しいんですよ。
卵のためだけの三十分にして欲しい。
卵のこと以外は何一つ考えないで欲しい。
そんな私の願いがね、この名刺には込められているんですよ」
控えめながらもよく通る声でそう述べた齋藤さんは、ごく自然な仕草にてその右手を僕の方へと差し出してきた。
一瞬の躊躇の後、僕はおずおずと自分の右手を差し出す。
「今日の出会いに、そして卵の目覚めに」
囁くようにそう言った齋藤さんは僕と握手を交す。
その掌はじんわりと暖かくて、真綿を思わせるように柔らかだった。
「柔らかいでしょ、私の手って。
卵のための手なんですよ。
毎日三回の手入れはここ十五年の間、欠かしたことはありません」
戸惑う僕に向けて齋藤さんはそう語り掛ける。
その口調は掌の感触を思い返させるように暖かで柔らかなものだった。
「それじゃ、早速ですが卵をご覧頂きましょう」
知らず知らずのうちに俯いていた僕は、無言のままに小さく頷く。
何故か上気しかけていた自分の表情を齋藤さんに気取られたくないと思っていた。
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