発奮する酒井さん

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齋藤さんは入口の傍に戻り、黒く無骨なスーツケースの上側にある赤くて丸いボタンを右の人差し指にてポンと押した。 すると、スーツケースはまるで割れるかのようにして、上部からパッカリと別れた。 そして、その左右の部分が床に倒れ込むのと同時に、側面から細いパイプで出来た脚がせり出してきた。 程無くして、スーツケースはバーベキューのコンロのようなテーブル状の姿となっていた。 テーブル状となったスーツケースの傍に歩み寄った齋藤さんは、カチャカチャとそれを操作して何かを取り出したり、はたまた近寄って来た卵オヤジに何やら指図しつつ僕へとこう問い掛けて来た。 「小島さん、日本の歴史の中で卵が最初に現れたのって、何時だかご存知ですか?」と。 咄嗟の問い掛けに戸惑う僕。 チラリと視線を上げて僕の戸惑い見て取った齋藤さんは、静かな調子にて言葉を続ける。 「卵の歴史、それは神代の昔へと遡ります。 高天原から降り立って、夫であるイザナギノミコトと共に我が国を産み出した母なる神・イザナミノミコト。 彼女は火の神カグツチを産み出した際に火傷を負ってしまい、それが原因となって命を落としてしまいました」 「彼女の死を嘆いたイザナギノミコトは黄泉の国へと赴き、愛しの妻を連れ帰ろうとします。 しかし、彼女のいいつけを破り、櫛に一つ火を灯したイザナギノミコトが目にしたものは、蛆にたかられ身体中に雷を宿す変わり果てたイザナミノミコトの姿でした」 「その姿に驚いたイザナギノミコトは慌てて逃げ出します。 自分の無惨な姿を見られたイザナミノミコトは激怒し、怪物のようなヨモツシコメにイザナギノミコトを追わせたのです。 ヨモツシコメは只管に逃げるイザナギノミコトに追い縋ります。 追い詰められて窮地に陥ったイザナギノミコト。 最早これまでと思った彼の前に、忽然と卵達が現れたのです」 齋藤さんの口調は次第に熱を増しつつあった。 僕は思わず身を乗り出し彼の話へと聴き入る。 「イザナギノミコトはその卵を手に取り、ヨモツシコメのほうへと放り投げたのです。 美味しそうな卵に目を奪われたヨモツシコメは跳び上がってその卵を掴みます。 そして、無我夢中で卵を貪り食べたのです。 それはもうガツガツと。 卵の美味しさに腑抜けのようになってしまったヨモツシコメは、イザナギノミコトを追うことを忘れてしまったのです」 「難を逃れたイザナギノミコトは、救ってくれた卵達に向けてこう語り掛けます。 『お前達が私を危難から救ってくれたように、この国に住まう人々が憂い悩む時に救ってやってくれないか?』と。 そして卵に『意冨多磨御美命(オホタマゴメノミコト)』と名を賜ったのです」 僕は知らず知らずのうちに大きく頷いていた。 日本の神話や歴史などについてそんなに詳しくは知らないけれども、イザナギ・イザナミの名前くらいなら知っている。 二人を巡るそんな哀しい別れの物語の一幕に卵が現れていたなんて実に意外な思いだった。 そして、訥々としつつも仄かに熱を湛えているかのような齋藤さんの声の響きは何とも言えず心地良かった。 話を終えた齋藤さんは、スーツケースの中から十センチ四方ほどの銀色の小箱を取り出した。 そして、まるで宝石箱を扱うかのような恭しげな仕草にて、その箱をパカリと開いて見せる。 「お~、今日もまた見事な卵ですな!  良かったな小島君!」 卵オヤジの耳障りで大袈裟な声が応接室の中へと響き渡る。 開かれた銀の小箱の中には白く艶やかな光沢を放つ柔らかそうな布が張られていて、その真ん中には、やや大ぶりの白い卵が鎮座していた。 柔らかな光沢に包まれた卵は、えも言われぬ高貴さを湛えているようだった。 齋藤さんは左手で下から支えるようにして銀の小箱を持ち、その右手に恭しげに卵を取り出す。 齋藤さんの掌の暖かで柔らかな感触が僕の脳裏を過ぎる。 その右手で卵を捧げ持った齋藤さんは、滑るような足つきで僕のほうへと歩み寄って来る。 「小島くん、よぉ~く見ておけよ!  これが卵を運ぶ時の足運びだからな!」 そう告げた卵オヤジへと顔を向けた齋藤さんは小さく微笑んだ。 その微笑みは何処か艶めいて見えてしまったし、その微笑みを目にした刹那、僕の鼓動はドクンと脈打ったかのように思えてしまった。 気が付くと、齋藤さんは僕の眼前に佇んでいた。 思わず息を呑む僕に構うこと無く、齋藤さんは歩みを進めて僕との距離を更に詰める。 そして、その左腕をスッと挙げると僕の背へと廻してきたのだ。 背中に当てられた齋藤さんの掌が、僕の身体を彼の方へクイッと引き寄せる。 齋藤さんと僕の身体は押し付けられるようにして密着した。 仕立のいいスーツ越しに齋藤さんの熱が、そして鼓動が伝わって来るように感じられてしまった。 言葉を失い、思わず身を強張らせる僕の耳元にて齋藤さんはこう囁いた。 「ほら、これがお前の卵だよ」と。 吐息と共に言葉の響きが脳髄へと染み入って来るような心持ちだった。
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