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「齋藤さん、どうぞ!」
齋藤さんの言葉を待ちかねたかのようにして、卵オヤジの恭しげな声が聞こえて来る。
半ばほど振り返った齋藤さんは左手にて何かを受け取る。
それから彼はしゃがみ込み、床にへたり込んだ僕の顔へその右手を伸ばす。
齋藤さんの人差し指と中指とが僕の顎をクイッと持ち上げる。
親指が僕の下唇を柔らかに撫でる。
呆然とした僕は、まさしく為されるがままになっていた。
口角を上げ、その顔に満足げな笑みを浮かべた齋藤さんは僕にこう告げる。
「その口を開けろ」と。
齋藤さんの口調は優しげでありつつも、有無を言わせぬ響きもまた纏っていた。
僕は言われるがままに口を開く。
すると、開かれた僕の口へと匙がスッと差し入れられて来たのだ。
思わず閉じた口の中にて、濃厚な卵黄の旨味が沁みるように拡がって行く。
その味わいはまさしく戦慄だった。
その旨味の輪郭を際立たせるかのような仄かな塩味もまた絶妙な加減だった。
齋藤さんは僕の口から匙を引き抜く。
そして、再び僕の唇の前へと匙を差し出してくる。
僕は反射的に差し出された匙を咥え込む。
濃厚でまろやかな旨味が再び口の中に拡がって行く。
恍惚が僕の脳髄を満たしていく。
齋藤さんが匙を差し出す度、僕は無我夢中でそれを咥え込む。
その度に、まるで寄せ来る潮のように悦楽が僕の心を浸して行く。
「ふふん、随分と夢中だな。
そんなに俺の卵が旨いのか?」
齋藤さんのその声音は、笑いを湛えつつも嘲るような色もまた帯びていた。
けれども、僕にとっては最早どうでも良かった。
「旨いですよ、旨いです!
旨いですっ!」
まるで譫言のように旨いと連呼する僕に対し、齋藤さんはこう語り掛ける。
「随分と素直になったじゃないか。
じゃ、これはどうだ?」
齋藤さんは卵オヤジから皿を受け取り、そこに載せられたものを箸で摘まみ上げて僕の口元へ寄せてくる。
僕は思わずそれに喰らい付こうとする。
けれども、齋藤さんはスッとその箸先を遠ざけてしまった。
お預けを食らった格好の僕へ齋藤さんはこう囁きかける。
「浅ましいなお前は。
実に浅ましいよ。まるで生まれたての小鳥のようだよ」
僕は思わず赤面してしまう。
「そら、卵を食え。貪り食え」
せせら笑うようにそう告げた齋藤さんは、箸先を再び僕の口元へと近付ける。
その箸先が摘まみ持つ物を、僕は無我夢中で咥え込む。
咥え込んだ物は柔らかで暖かで、一心不乱となって僕は噛み締める。
口の中にふんわりとした食感や優しげな卵の旨味、そして出汁の風味が溢れ返る。
僕が齋藤さんの箸先から咥え取った物、それはだし巻き卵だった。
「さっきは痛かっただろう、悪かったな」
慈しむような声音が僕の耳へと響き入る。
「そら、もっと食え。
卵を食えば元気が漲るぞ」
何時しか僕の目からは涙が溢れ出していた。
僕の喉は何時しか嗚咽を絞り出していた。
齋藤さんが僕に優しく接してくれるのがこの上なく嬉しかったし、慰めの言葉を掛けてくれたことに深々とした安堵もまた抱いていたのだ。
嗚咽の合間に齋藤さんが箸、あるいは匙で差し出してくれる卵料理を僕は夢中で貪っていた。
だし巻き卵の後はマヨネーズで合えた卵サラダだった。
その次はオムレツで、その次は半熟の味玉だった。
柔らかに焼いた目玉焼きに醤油を垂らしたものも食べさせてくれた。
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