太郎 10

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太郎 10

 「…久しぶりさ…」  私は言った…  なんだか、気分爽快とまでは、いわんが、ホッとした…  やっと、自宅に戻ったことで、ホッとした…  「…太郎は、この家は、初めてだったな…」  と、私は、自分の近くにいる、太郎に言った…  太郎は、  「…キー…」  と、鳴いた…  私は安全のため、太郎の首にひもをつけ、それを、持っていた…  太郎が逃げ出さんためだ…  そして、恐る恐る、葉尊を見た…  葉尊が、どんな表情をしているか、知りたかったからだ…  が、  葉尊は、いつものままだった…  いつもの、穏やかな葉尊のままだった…  私は、それを、見て、ホッとした…  心の底から、ホッとした…  そして、太郎を見た…  太郎が、さっきのように、葉尊に襲いかかるかも、しれんと、思って見た…  が、  太郎にも、なんの反応もなかった…  太郎もまた、いつものままだった…  私は、考えた…  わずか、一瞬の間とまでは、いわないが、先ほどの葉尊の変貌は、なんだったのか?  と、考えた…  まさか、夢を見たわけでは、あるまい…  たしかに、アレは、夢ではない…  明らかに、葉尊は、変貌した…  毒々しい顔に変貌した…  禍々しい顔に変貌した…  私は、思った…  それとも?  私は、思った…  それとも、アレは、もしかして、葉尊の第三の顔…  葉尊の第三の人格?  もしかしたら、葉尊には、葉問だけでなく、もうひとつの人格がある?  それが、さっき、偶然、この矢田が、目にしただけ?  ふと、そんなふうなことを、思った…  バカバカしいと思いながらも、ふと、そんなふうなことを、考えた…  これは、なにも、この矢田の頭がおかしくなったわけでも、なんでもない…  多重人格というものは、明らかに、この世に存在する…  要するに、ひとつのカラダの中に、複数の人格が、存在することだ…  24人のビリーミリガンというダニエル・キースの小説があるが、これは、ノンフィクション…  実話だ…  普通は、誰もが、考えられないが、明らかに、多重人格は、存在する…  が、  普通は、誰も、お目にかかったことがないだけだ…  私も、葉尊と、葉問を目の当たりにして、初めて、実感した…  ホントに、この世の中に、そんなことがあるんだと、実感した…  だから、もしかした、葉尊と、葉問以外に、葉尊の中に、違う人格が、いても、おかしくはない…  葉尊の中に、葉問以外の人格が、存在しても、おかしくはない…  私は、そう、思った…  そして、あらためて、葉尊に聞いた…  「…葉尊…ひとつ、聞いていいか?…」  「…なんですか? …お姉さん?…」  「…太郎のことだが、当面、ここで、私たちと、いっしょに、暮らしても、いいか?…」  私が、聞くと、葉尊は、  「…」  と、答えんかった…  やはり、太郎と暮らすには、嫌なのだろうか?  私は、考えた…  いや、  嫌に、違いない!…  なんといっても、太郎は、猿だ…  例えば、猫や犬を連れてきて、 「…この家で、飼ってもいい?…」 と、家族に言われても、普通は返答に詰まる… 大抵は、嫌だからだ… 面倒を見るのが、嫌だからだ… それに、例えば、猫を飼えば、家の中で、飼うから、家も汚れる… だから、それを嫌がる… そう、思った… …やはり、ダメか?… 私は、思った… が、 この太郎を手放すことは、できんかった… 太郎は、私の恩人… いや、 猿だから、恩猿だった… その恩猿の太郎を手放すことは、どうしても、できんかった… だから、もし、この太郎との同居が、認められんのなら、離婚か? 私は、思った… いや、 離婚までは、いかんでも、別居か? 別居して、太郎を実家で飼うか? いや、いや、 実家には、父と母がいる… あの鬼のように、怖い母がいる… あの母が、太郎との同居を認めるはずがなかった… なかったのだ(涙)… だったら、どうする? このマンションもダメ… 実家もダメ… と、なれば、あらたに、どこかに、家を借りるしかない… が、 今、この矢田は、無職… 家を借りるぐらいの貯金はあるが、実際に、借りるとなると、すぐに、貯金が底を突く可能性が高い… うーむ… どうする? 悩んだ… 悩み抜いた… 一体、こんなに、悩んだのは、いつ、以来だろうか? 大学の入試以来じゃないだろうか? 私が、うんうん、悩んでいると、 「…いいですよ…」 と、あっさりと、葉尊が言った… 私は、驚いた… 「…ホントか? …葉尊?…」 「…ハイ…ホントです…」 「…すまんかったさ…すまんかったさ…」 私は、喜んで、葉尊に礼を言った… 喜びのあまり、葉尊の手を握って、礼を言った… 私が、これまで、一度もしたことがない行為だった… 結婚以来、一度もしたことがない行為だった… 私は、思った… 私が、そんなことを、考えていると、 「…ですが、お姉さん…」 葉尊が、付け加えた… 「…なんだ?…」 「…そもそも、その猿は、誰の猿なんですか?…」 「…誰の猿だと? …どういう意味だ?…」 「…この猿の所有者です…この猿は、誰が見ても、以前、ひとに飼われていた猿です…そうでなければ、こんなにひとに、なつきません…」 「…」 「…まずは、その猿の所有者を探すのが、先決なのでは、ないでしょうか? 警察にでも、届けて、この猿の所有者を探す…それで、その猿の所有者が見つからなければ、お姉さんが、面倒を見る…違いますか?…」 葉尊が、言った… そして、私は、葉尊が言うと、 「…」 と、答えれんかった… 「…」 と、反論できんかった… なぜなら、葉尊の言うことは、もっともなことだからだ… だから、反論できんかった… この太郎… 元はと言えば、あのアンナという女が、飼っていた… 私が、バニラの娘のマリアといっしょに、セレブの保育園の行事で、動物園に行く際に、豪華なサロンバスに乗っていると、サロンバスの中に、いきなり、この太郎が現れた… サロンバスの中にいた、セレブの保育園の子供や保護者は、皆、動転した… まさか、いきなり、猿が、バスの中に現れるとは、思わんかったからだ… すると、アンナが、いきなり、 「…私の猿です…」 と、名乗り出た… 「…先日、この猿を偶然、街中で拾って、今日、動物園に行くので、それで、動物園に引き渡そうとして、このバスケットに入れてきました…それが、このバスケットから、逃げ出して…」 と、たしか、そんなふうな説明をした… だから、そのアンナの説明を信じれば、あのアンナも、この太郎をどこかで、拾ったことになる… が、 結局、あの後、私たちが、動物園に行ってから、あのアンナが、この太郎を、動物園に預けたかどうかは、わからん… 私は、あのとき、アンナと初対面… だから、当たり前だが、親しい関係ではない… だから、アンナが、本当に、この太郎を動物園に預けたのか? わからんかった… 確かめようが、なかったからだ… それになにより、あのアンナという女と、その後、二度と会ったことはなかった… 会ったのは、あのときが、最初で、最後… それに、あのアンナが、あのセレブの保育園の誰の保護者だったのかも、わからんかった… あのとき、アンナと、話したのは、この太郎が、バスケットから逃げ出して、この矢田の元にやって来たときのみ… 会話をしたのは、あのときが、最初で、最後だった… だから、あの後、アンナのことは、すっかり、忘れていた… 考えもせんかった… そして、数日後、この矢田が、普通に、道を歩いていたときに、偶然、この太郎と出会った… なぜか、猿の太郎が、道を歩いていた… そして、なぜか、この太郎は、この矢田の元にやって来た… なぜか、この矢田と会うのは、二度目にも、かかわらず、この矢田になついた… まるで、この矢田と太郎が、これまで、見知っていたように、なついた… これは、普通なら、ありえん… ありえん話だった… 誰に、聞いても、眉唾物というか… 「…ホントか?…」 と、思わず、相手が、言い出しそうだった… いや、 言い出すに決まっていた!… が、 事実だった… 紛れもない事実だった… が、 冷静に考えれば、怪し過ぎる… なにやら、怪し過ぎる… 誰かが、裏で糸を引いている… 誰かが、裏で、なにか、仕組んでいる… そう、考えるのが、普通かも、しれん… あらためて、そう、思った… あらためて、そう、考えた… そして、そんなことを、考えれば、この太郎… たしか、リンダが、言ったが、 「…もし、このお猿さんの前に、このお猿さんを飼っていた元の飼い主が現れて、このお猿さんに、なになにをしろと、命じたとする…そして、真逆に、お姉さんは、そんなこと、しちゃダメ!と、止める…そのとき、このお猿さんは、元の飼い主と、お姉さんの、どっちの言うことを、聞くかしら?…」 と、言った… これは、考えたことも、ないことだった… たしかに、リンダの言う通り、この太郎が、誰かに、飼われていたことは、わかる… 誰か、人間に飼われていたことは、わかる… そうでなければ、これほど、この太郎が、ひとになつくわけがない… この矢田になつくわけがないからだ… そして、肝心なのは、もしかしたら、それが、目的なのか? ということだ… なにを目的に、この矢田に近付いたのかは、わからん… が、 この太郎を、私に近付けさせるのが、目的なのか? とも、思った… なにを、目的に考えているのか、わからんが、この太郎を使って、なにやら、この矢田に仕掛けてくるかも、しれん… ふと、気付いた… 気付いたのだ… そして、そう考えると、なにやら、この矢田の胸が高鳴った… この矢田の大きな胸が高鳴った… この矢田トモコ、35歳の大きな胸が、高鳴ったのだ…               <続く>  
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