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私は愛を知らない。
家族が暮らす大きな御屋敷の隣の小さな離で独り。
ただ、本を読んで過ごしている。
優しい言葉をかけられたことがない。
使用人たちは目も合わせてくれない。
私は、どんな罪を犯したのだろう。
【三日の禍姫】
それに気づいたのは十歳になったばかりの頃だった。
庭に迷い込んだ黒い野良猫に懐かれた。
好かれるのは初めてだった私は戸惑いながらも可愛がった。
猫は出会って三日で死んだ。
死因は分からない。
全身の毛が真っ白になっていた。
何かの病気だったのかもしれない。
一度だけならそう思えた。
それからは動物も野鳥も花も。
私が可愛いと思ったものは全て真っ白になり、三日で死んだ。
理由が分からなかった。
書庫の本を全て読んでも分からない。
原因を知ったのは十三歳の時。
使用人たちが小声で話していたのを聞いた。
禍姫。
この国に伝わる古い話。
禍姫は白い髪に白い肌を持って生まれる。
その娘が愛したものは色素が抜け落ち、三日で命を落とす。
全てが繋がった。
お父様もお母様も使用人も、私に愛され死ぬことを恐れている。
それから私は、何かを愛しく思うことをやめた。
十四歳になった頃。
お父様からお手紙を頂いた。
そんなこと初めてだったから嬉しかった。
手紙は縁談の話だった。
お相手は他国のお世継ぎ。
とても良い条件だった。
お相手はきっと私の素性を知らない。
知っていれば妻にと望むはずが無い。
これはお父様の策略だと思った。
恐ろしい政略結婚だ。
分不相応だと断ったのに。
縁談話は進められた。
娘が嫁ぐというのに、お父様もお母様も見送ってくれなかった。
煌びやかな着物で輿に乗り、僅かな人数で国境を目指す。
輿は国境で相手国の人間に引き渡された。
もう戻れない。
冷遇されたとはいえ、産まれ育った土地を離れるのは辛かった。
私が嫁ぐ国は小さい。
小さいけど強い。
私の国の王は恐れている。
何も知らないお世継ぎの命を奪うことが私の役目なのだろう。
私は彼を愛せるだろうか。
◆
輿が降ろされた。
扉が開かれる。
使用人の女性の手を借りて輿を出た。
そこは大きな御屋敷の前。
暖かい風。眼下に広がる海。
本で読んだ異国の風景が広がる。
「海を見るのは初めてですか、姫」
いつの間にか隣に立っていたのは、背の高い青年だった。
日に焼けた肌。逞しい腕。
眩しい笑みを私に向けている。
「……はい」
「貴女の国に海は無いですからね」
「そのようですね」
屋敷の外へ出たことが無いから知らないのだけど。
「しかし真っ白ですな」
「何がでしょう」
「貴女の肌。そして髪。貴女の国には多いのですか?」
「……わかりません」
限られた使用人としか顔を合わせたことがないから。
使用人達は皆、黒い髪だった。
「とても美しい」
それが褒め言葉であることは無知な私にも分かる。
初めてかけられた優しい言葉。
でも。
「褒められても嬉しくありません」
この色は禍姫の象徴。
忌まわしい白なのだから。
「これは失礼。容姿を評価するのは良くありませんね」
「本当に」
「無礼をお許しください」
この人はお世継ぎに仕える武官か何かだろうか。
とても人当たりの良い方だと思った。
でも心は開けない。
他人など皆同じ。
私のことを忌み嫌う。
「許しません」
「……参りましたな」
もう構わないで欲しかった。
なのに彼は私から離れようとしない。
「早々に怒らせてしまいました。先が思いやられる」
「私に近寄らなければいいのでは?」
「そうは参りません」
「夫から私の護衛を任されたのでしょうけど」
「……いや、そういう訳では」
「では、何故ここに?」
彼は困った様子だった。
「答えなさい」
厳しい口調で問い詰める。
私はお世継ぎの妻なのだから誰も文句は言えない。
予想通り彼は黙り込む。
そして口元に手を当て少し悩んだ様子を見せてから苦笑して、消え入りそうな声で言った。
「私が……貴女の夫なので」
……うそでしょ。
お世継ぎと言うからもっと高貴な雰囲気の男性だと思っていたのに。
到着早々にやってしまった。
国へ帰されても文句は言えない。
「華陵殿」
「……はい」
「私はこの国の第一王子の虎皇と申します」
彼はにこやかに挨拶をする。
……怒っていないのだろうか。
「他国での暮らしは不安でしょう。何かありましたら遠慮なくお申し付けください」
優しい人。そして誠実。
そんな出来た人間が居るはずが無い。
きっと最初だけだ。
そのうち本性を表すに決まっている。
祝言は三日後。
私は与えられた部屋でゆっくり過ごそうと思っていた。
のに。
「華陵殿!よろしいか!珍しい魚が上がりましてな!」
とか。
「華陵殿!空をご覧ください!彩雲が!」
とか。
彼が頻繁に顔を出すから休めない。
その度に侍女が彼を叱りつけていたけど。
というか……王子なのに恐れられてないの、この人。
使用人からもぞんざいに扱われていた。
威厳も何も無い。
ただの普通の気のいい若者だ。
私の視線に気付いた彼が苦笑いで言った。
「すみません。とにかく貴女の顔が見たくて」
……何なの?
彼に殺す価値があるのか不安になる。
放っておいてもこの国は滅ぶかもしれない。
◆
祝言は滞りなく進んだ。
私の国からは王の側近と名乗る男性が来ていた。
彼も私の方を見ようともしない。
疎まれて暮らした日々を思い出す。
もし。私が役目を終えたら。
帰る場所はあるのだろうか。
祝言の夜。
私は彼の部屋に入る。
夫婦になったのだから当然、共寝する。
怖くないと言えば嘘になる。
私は誰かに触れられたことが無い。
幼い頃から身支度も自分でさせられた。
畳に座って彼を待つ間も身体の震えが止まらなかった。
でも、何があっても受け入れなくては。
「華陵殿」
突然、声を掛けられ肩を震わせてしまった。
怯えていることを悟られたかもしれない。
彼は黙って私の前に座る。
「案ずるな。何もしない」
「……え?」
「貴女はまだ十四。夫婦と言っても形だけだ」
「でも……」
「周りには契りを結んだことにしておけば良い」
……それでいいの?
戸惑う私に彼は明るく言う。
「それより。貴女の話が聞きたい」
「私の?」
「貴女を知りたい」
「知ってどうするのです」
「どうもしない」
意味が分からなかった。
「政略結婚とはいえ私は貴女を心から愛したい」
「……私は貴方を愛せません」
「それでも構わない」
「自分を愛さない女を愛してどうなるのです。早く妾を探してください。夜伽は、その者に」
「妾を持つつもりは無い」
本当に意味が分からない。
「お子が出来ないと困るでしょう。貴方は王子なのですから」
「まあ、それはどうにでもなる話だ」
「そんな適当な……」
「貴女が幸せならそれでいい」
どうして?どうして私なんか。
誰からも愛されない。
誰も愛せない私を。
いつの間にか眠ってしまっていた。
目覚めたら隣で彼が寝ていて。
飛び起きて着物の乱れを直す。
昨夜は何も無かった。
ただ同じ布団で眠っただけ。
それでも周囲は無事に初夜を終えたと思ってくれたようだ。
侍女が労わってくれた。
私は侍女にも辛く当たる。
好かれたら好きになってしまいそうだから。
この国の人は温かかった。
だから私は。
心を閉ざした。
彼は変わらず優しかった。
指一本触れさせない妻なのに。
毎日、顔を見に来てくれる。
他愛の無い話をして、美味しいものを食べさせてくれて。
夜は周囲の目もあるから、時折彼の部屋に通っていたけど。
何もせず眠るだけだった。
妾を迎えるように頼んでも聞いてくれなくて。
慌てることは無いとはぐらかされた。
彼との穏やかな暮らしで、いつしか私の気持ちは変わっていた。
この国の。そして彼の役に立ちたい。
そう、強く思い始めていた。
◆
嫁いで一年。
当然、子が出来ない私はそれを理由に義父へ自ら離縁を願った。
帰る場所は無い。
離縁が叶えば海に身を投げるつもりだ。
この国の未来の為に私は消えなくてはいけない。
それが一番の近道だから。
最期に人の温かさを知ることが出来て良かった。
知らなければ、ただ恨みを抱えて死ぬだけだった。
「華陵よ」
義父に呼ばれ顔を上げる。
「其方が国で禍姫と呼ばれていたのは知っている」
「え……」
知っていて息子の妻にしたということ?
何の為に。
「其方が愛したものは三日で命を落とすと」
「……はい」
「しかし我が国では誰も死んではおらぬ」
「それは私が誰も愛してはいないからです」
「虎皇のことも、か」
「はい」
「あれは愚直な男だ。其方を心底愛しく思っている」
分かっている。
彼の愛は本物だと。
だから一緒には居られない。
きっと愛してしまうから。
「私には勿体ないお方です。どうか、彼に相応しい良い妻をお選びください」
「其方以上に良い妻を、か。本当にそれで良いのか」
「はい」
私の決意は揺るがない。
義父は渋々承諾した。
義父は私が国へ帰る手配をしてくださると言っていた。
夜も明けきらないうちに粗末な着物に着替え、ひっそりと屋敷を出る。
海へと続く道を歩く間も涙が止まらなかった。
こんなにも、この国の人々を愛しく思っていたのだと知った。
早く海に身を投げなくては。
愛する人を殺してしまう前に。
崖の縁に立つ。
足がすくんだ。
本当は死にたくない。
生きて彼と歩みたい。
でも許されない。
私は禍姫だから。
この国と、彼と、これから彼の妻になる人の幸福を祈り目を瞑る。
浮かぶのは彼の明るい笑顔。
「……さよなら……虎皇……」
どうか幸せに、生きて。
それが私の最期の願い。
「華陵!」
力強い声が私を引き戻した。
気付いたら彼の腕の中だった。
彼は私の身体を痛いくらいにきつく抱き締めて、泣きながら言う。
「死ぬな……華陵」
水平線から朝日が昇る。
また新しい一日が始まる。
彼が堪らなく愛しくて。
生まれて初めて私は。
心から「生きたい」と思った。
◆
彼も私の素性を知っていた。
知っていて妻に迎え、愛してくれた。
義父が私を嫁として迎えると言った時、他の王子たちは誰も手を挙げなかった。
当然だ。誰も死にたくは無い。
なのに彼は率先して引き受けたと言う。
第一王子という立場なのに。
王子としての代わりはいくらでも居る。
だけど私の夫になるのは自分しか居ないと思ったらしい。
正直に言えば最初は死ぬのが怖かった。
でも私に会った瞬間に恐怖は吹き飛んだ。
堪らなく可愛くて、私に愛されるなら死んでも構わないと思うようになったと笑う。
私も彼を愛してしまった。
その証に、彼の艶やかな黒髪や焼けた肌から色が抜け始めている。
彼は三日後に死ぬ。
その時は私も一緒に――。
「華陵」
「……はい」
「私は死なないよ」
「え……」
「共に末永く生きる道が、この国にはある」
そんな話は聞いたことが無かった。
彼の優しい嘘だと思った。
◆
屋敷に戻った私の前に彼が小さな紙の包みを置く。
「……これは?」
「我が国に伝わる秘薬だ」
「どんなお薬なのですか?」
「一粒で三日分の記憶が消える」
「記憶が……消える」
この薬で何故、彼が生き長らえることが出来るのか分からなかった。
「華陵が私を愛しく思ったら、三日以内に飲んで欲しい」
私が彼を愛する気持ちを忘れれば、彼の死の呪いは解けるということらしい。
二人で生きる為にはそれしか方法が無いのだと理解はしていた。
でも、たった三日で忘れてしまうなんて。
また一からやり直すなんて。
次にまた彼を愛せる保証も無い。
「私は大丈夫だ。また華陵に愛して貰えるよう努力する」
「そんなこと言わないでください……」
「ずっと新婚で居られるようなものだ。私は嬉しいよ」
「虎皇……」
こんなに幸せでいいのだろうか。
でも、この幸せも三日しか続かない。
そう思うと素直に喜べなかった。
「御縁をくださったお父上に感謝しないと」
そうだ。そもそも何でお父様は私を彼に嫁がせたのか。
殺させる為では無いのなら、何故。
「お父上は自らの命と引き換えにする覚悟で、我が父に助けを求めた。娘の為に秘薬を譲って欲しいと」
「……お父様が?」
「過去の禍姫の記録を調べ尽くしたようだ。そこに、この薬が禍姫を助けたという記述があったらしい」
だけど秘薬は他国の人間である父には譲れない。
私は禍姫。国内で娶ってくれる人も居ない。
義父は、ならば息子の妻として迎えようと言ってくれた。
その寛大さに感謝するしかなかった。
禍姫の伝承を知らないこの国でなら、私が自由に暮らせるからと、お父様は私を手放す決意をした。
それがお父様の愛情だった。
「……何も知りませんでした。知ろうとも思わなかった。私は皆に疎まれていると思っていたから」
「お父上は祝言に来てくださっていたよ。言うなと言われたから黙っていたけど」
王の側近と名乗っていた、あの男性が……お父様。
貫禄のある人だった。
「お父上は華陵の幸せを願い私に託してくれた。感謝している」
私が彼を愛せるかは、お父様にも分からなかっただろう。
愛せなかったとしても、小さな離に閉じ込めておくよりは幸せになれると。
「華陵が私を愛してくれたら全てを打ち明け薬を飲ませるつもりだった。が。この一年間、貴女は私を愛してはくれなかった」
「……ごめんなさい」
「貴女は悪くない。全ては私の不徳の致すところ」
「……違います!貴方はとても良い夫でした。だから……死んで欲しくなかった」
初めて本当の気持ちを伝えることが出来た。
悪女を演じるのは辛かった。
本当は愛し愛されたかった。
「分かっている。華陵はとても優しい人だ。私たちのことを思って冷たくしていたと、侍女も使用人も全て理解しているから」
私は何を見ていたのだろう。
皆の優しさに気づかなかった。
愛しく思う気持ちは理屈では無い。
私も知っていたのに。
「華陵」
「……はい」
「改めて。私の妻になって欲しい」
これは何度目の求婚なのだろう。
私には知る術もない。
私は何度頷いたのだろう。
その度に彼は嬉しそうに笑ってくれる。
たった三日の愛だけど。
私には永遠だった。
【 完 】
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