沢の森

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沢の森

 冒頭には、あの時洋さんが言った不思議な言葉がページの真ん中に一文だけあった。その言葉は、きっととても大事な言葉で、簡単に声に出していいものではないと思った。  物語の初めに出てくるのは、古い民家。小学校の裏に続く沢の森の手前、草の生い茂った砂利道を進むと見えてくる。あたし達は、物語と同じように元小学校へと続く坂道を登って、裏へと回った。 「ここは、もう小学校じゃないの?」  元は白かったのかもしれないけれど、黒く汚れたコンクリートの校舎を見上げて、あたしは目の前を歩くアオイくんに聞いた。 「うん、僕らの小学校はここじゃないよ。お父さんが通っていた頃は小学校がたくさんあったんだって。だけど、今はもう僕らの通う小学校一つにまとまっているから、この校舎はなんか別なことで使われているみたい」  登りきった校舎裏の駐車場には何台か車が止まっているから、人がいるのは確かだ。だけど、なんだかとても古びていて風がやけに涼しく感じた。 「あっちだよ」  キョロキョロと校舎を見ていると、キカくんがまっすぐ指差す方に、草木で覆われた民家、と言うよりは、廃屋と言った方が正しいくらいに荒れ果てた家が視界に入り込んできた。  森の木々が立ち並ぶそばには沢があって、サラサラと水が流れていく。青い空に白い雲がくっきりと浮かんでいて、木漏れ日からキラキラと太陽のかけらがこぼれ落ちてくる。こんな世界、映画や映像でしか見たことがなかった。  思わず、あたしはその美しさにため息が出てしまった。 「やっぱため息も出るよな」  ボソリと、アオイくんが顔色を悪くしてあたしのピッタリ隣へと立った。 「よくあいつら平気であんな、なにがいるかもわかんねーところに行こうなんて思うよな」 「アオイはビビりすぎだろー! ヘビはこれでなんとかなんだろ」  キカくんが辺りを見回した後に、拾い上げたのは太めの木の枝。 「クマは、とりあえず騒いどきゃ寄ってこないんじゃん? 俺、鈴もあるし」  冷静にポケットからクマ除けの鈴を取り出したハヅキくんがズボンのベルト通しに鈴を装着する。  どんどん先を行く二人に、アオイくんがますます深いため息をついた。 「ちげーだろぉ! ヘビとかクマとかの前になんか出そうだろ! 絶対に!」  きっと、あたしが煌めいて見えていた世界は、アオイくんにはどんよりとお化け屋敷のような世界に見えているのかもしれない。真っ青な顔をしてこちらを見るから、笑うしかない。  確かに、少し怖い気はするけれど、今は恐怖よりも好奇心の方が上回っている。  ようやく二人に追いついて、膝丈まで伸びた草をかき分けながら家屋を見た。  遠目で見るよりもずっと酷い。ガラス窓はヒビが入っていて所々かけているし、屋根や壁は剥がれ落ちている。家の中は薄暗くも、日差しのおかげでうっすら見えた。  一部屋しかないように見えるのは、中の壁や仕切り戸がもうボロボロになっているからだろう。建物自体も傾いていて、いつ倒れてもおかしくなくらいに歪んでいた。 「おいっ、ここ立ち入り禁止って看板あるぞ」  すでに家の中を覗き見ているキカくんとハヅキくんに、アオイくんが雑草に覆い隠された小さな古い看板を、草をかき分けて見せてくる。 「見えなかったー」 「キカに同じく」  『危険』と添えられた看板にも物怖じせずに二人は興味津々でガチャガチャと玄関らしきドアノブを回し始めた。 「あ、やっべ。壊れちゃった」 「お前、器物損害罪で捕まるぞ」 「は!? 捕まんの? 俺? ヤダヤダ」  ハヅキくんの言葉に、キカくんが慌ててドアノブを元に戻そうとしているから、あたしはそんな二人の行動に、他人の家の敷地内に入っている時点でもうすでになにかの罪とかあるんじゃないのかな? と冷静に考えてしまう。  ふと、視界に入ってきた壁にかけられたカレンダー。今は七月だけど、十一月になっている。だけど、問題はそこじゃなくて、十一月の隣の数字。 「一九八三年……?」 「あー、四十年前だな」  すぐ後ろから聞こえた声にびくりと肩が震えた。 「沢の森を抜けて高見公園まで行きたかったけど、時間切れ。また明日だな」  キカくんが一通り家屋を見て回ってきて、手にしていた木の枝を空に向けた。  ちょうど、夕方五時のチャイムが鳴り出して、ハヅキくんとアオイくんは草むらから砂利道へと戻っていく。 「五時にはみんな帰る約束だから。また明日来ような」  日の長い七月。辺りはまだまだ明るいけれど、時間はあっという間に過ぎていたようで、あたしはポケットに入れていたスマホを取り出す。 「うわ! いいなー! スマホ! 僕も欲しいんだけどお父さんにダメって言われてるからなぁ」 「別に要らなくね? 毎日学校で会えてるんだし、学校終わってもこうやって遊んでんじゃん。明日だって会うだろ」  アオイくんがあたしのスマホを羨ましそうに見てくる隣で、キカくんが呆れたように言う。 「そーだけどさぁ……でも……」  はしゃいでいたアオイくんの表情が一気に曇っていくのを見て、あたしは不思議に思った。  スマホなんて、あたしにとってはパパやママとの連絡手段以外にはなんの役にも立たない。  まぁ、好きな動画や興味のある事を調べたり見たりするのには役立ってはいるけれど、このスマホの中にあたしと本当に繋がる友達なんて、一人もいない。キカくんの言う通り、別に要らないものなのかもしれない。  家に帰ってくると、アオイくんは青いランドセルを、ハヅキくんは黒いランドセルを背負ってそれぞれ帰って行った。残った赤いラインにネイビーのランドセルはキカくんのものだと思うのだが、夕ご飯を食べ終わってお風呂上がりに通った玄関前、ずっとそこに動いた形跡がないまま置きっぱなしにしてある。 「あ、キカのランドセルね。邪魔よねぇ」  じっと眺めていたからだろう。通りかかった珠恵さんが笑いながら端の方へとよけると、「おやすみ」と言ってお風呂場へと向かって行った。  部屋の中にはもうすでに二組布団が敷かれていて、パパが荷物の整理をしていた。 「キカくん達とどこまで行ってきたんだい?」  手を動かしつつ聞いてくるパパに、今日のことを話してみる。 「へぇ、パパの母校に行ってきたのかぁ。いいな、パパも明日行ってみようかな」 「あの学校、パパが小学生の時に通っていたの?」 「そうだよ。裏に誰も住んでいない古い平屋があってさ、よく友達と秘密基地ごっこして遊んだなぁ。沢の森にはおたまじゃくしの池があってうじゃうじゃいたんだよ。懐かしい」  思い出すように、パパが手を止めて目を細める。 「あの古い家ってパパの小さい時からずっとあるの?」 「え!? まさか今もあるの?」 「うん、あったよ。今日見てきた」 「そうなんだ、キカくん、引き受けないなんて言ったらしいけど、案外その気なのかな」 「え?」 「あ、いや。こっちの話」  慌てたようにまとめた荷物を部屋の端に寄せると、「パパは洋さんに付き合ってくるから、ミナは寝なさい」と、手でクイっとお酒を飲む動きをした後に、電気の紐を引っ張り豆電球にする。あたしはタオルケットをお腹まで引っ張って、足を出した。 「キカ早く寝なさいよー」 「わかってるし、ってかミナもう寝たの? はやっ」 「遠くから来て疲れてるのよ。女の子なんだからあんまりあっちこっち連れ回さないのよ」 「あいつもう俺らの仲間だし。明日は高見公園連れてく」 「あら、いいわね。どんどん連れてってあげなさい」 「どっちなんだよ、意味わかんねー、もう寝る! おやすみー!」 「静かに行きなさいよ」 「はいはい」  リビングの方から聞こえてきた声は、暑さを逃すために開け放たれていた部屋によく響いてきた。  キカくんの言葉に、あたしはグッと胸が苦しくなった。 ─あいつもう俺らの仲間だし─  今日会ったばかりなのに仲間とか、なんかそんなの変だ。だけど、心の奥底ではすごく嬉しいと思ってしまっている。一ヶ月だけ。期間限定の友情だ。そんな深く付き合うことはないけれど、知らない町を案内してもらうにはちょうどいい。  あの本も、洋さんはあたしだけじゃなくて、あの三人にも託しているんだと知った。  だとしたら、みんなで協力して過去の洋さんに本を返してこないといけない気がする。  明日、もう一度本の続きを読もう。まだ最後までは辿り着いていなかったから。  そっと吹き込む風が心地よくて、あたしはいつの間にか眠りについていた。
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