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夏野菜
次の日、朝早くからドタバタと忙しない足音が聞こえてきて目が覚めた。ゆっくり起き上がると、隣ではまだいびきをかいて寝ているパパの姿。
縁側のカーテンの隙間から光が漏れている。
今日は天気が良さそうだ。扇風機のスイッチを入れて、じんわり汗ばんでいた体に心地良い風を送る。まだ目覚めない頭に、座ったまま瞼が重たくなって来ていると、「いってきまーす」と元気のいい声が聞こえてきて、大きく目を見開いた。
キカくんが学校に行ったんだ。
外から賑やかな声が聞こえてくるから、きっと昨日の二人も一緒に登校するんだろうと思って、そっとカーテンから覗く。
楽しそうに歩いていく三人の男の子達の後ろには、昨日見たランドセル。
本当に仲が良いんだなぁ。
小さく、ため息が出てしまった。
朝ごはんをいただいた後、布団を畳んで、蝉の声と窓から吹き込む柔らかな風に包まれながら、本を開く。
今日は高見公園に行くって言っていた。ちょうどその場面が出てくるページで手を止めて、じっくりと読み進めた。
沢の森から奥へと続く山道。急な崖があったり草木がますます生い茂っていたりして、行く手を阻む。過酷な道だ。そんな山道を登り切ると、ひらけてきた場所に整備された公園。公園自体は昔からあるけれど、遊具が取り付けられたのは最近らしい。と、言っても、それは本の中の話で、実際に行ってみないと分からない。
本の中の場所を巡ることで、洋さんの過去に何か結びつくようなことが起こるのだろうか?
本を手にしたまま、あたしはゴロンと畳の上に寝転んだ。
仰向けに天井を見上げる。今日の天気はずっと晴れだ。さっき朝ごはんを食べながら見ていた朝の情報番組で天気予報が映った時に確認した。降水確率もゼロ。暑くなりそうだ。ぼーっとしていると、カタンっと、廊下の方から物音がした。
ゆっくり起き上がって、テーブルに本を置いた。開いていた障子戸から、そっと音の聞こえた方を覗き見る。一番奥の書斎前に、洋さんの姿を見つけた。
あたしがジッと見つめていると、視線に気がついたのか、洋さんがこちらを向いた。
思わず、戸から半分以上出かかっていた体を引っ込めて、顔半分だけ出して、もう一度洋さんの行動を見守る。
「来なさい」
「……え」
「書斎に興味があるんだろう? おいで」
低いけれど、優しい声に聞こえた気がして、あたしは洋さんが書斎に入っていくのを確認した後にゆっくり向かった。
「物語を書くことが好きなんだってな、君は」
ギィっと音を立てて椅子に体を預けた洋さんが、こちらを向いて微笑んだように見えた。
「あ、は、はいっ! 小さい時からこうだったらいいのにな、とか、こんな世界があったら楽しいのになって、頭の中で色々考えるのが楽しくて」
「そうか、その気持ちを大切にしなさい」
「あ、はいっ」
「できれば、一日でも早くあの本の真意に気がついてほしい」
「……しん、い……?」
「少し篭りたいから、また後で何か用事がある時は来なさい」
「あ、はい」
スッと、障子戸を引いて廊下に出ると、庭を歩く和子さんの姿を見つけた。
ツバの広いピンク色に小花模様の帽子は襟元を隠す共布が付いていて、まるで保育園児の帽子みたいに見えた。
腕には同じような小花柄の袖をつけている。なんだか気になって、あたしは玄関から外へと出た。
ちょうど、玄関先で和子さんと鉢合わせると、「ミナちゃん」と声をかけられた。
「ちょうど野菜収穫したとこだよ」
「え、野菜?」
「ほら、あそこの畑にいっぱいあるから」
笑顔で指差す方向には高いツルが伸びる葉っぱや、もりもりと盛り上がった葉の中に見える赤や緑、紫。
「太陽いっぱい浴びた野菜は美味しいよ。採れたて、食べてみるかい」
野菜を洗うための石造りの簡易水道には、キラキラと太陽の光を水滴に反射させた色とりどりの野菜が並んでいる。
「このトマトはパツパツして美味そうだ」
まんまるを通り越した大きなトマトを拾い上げて、目の前に差し出された。
嬉しそうな笑顔の和子さんに、まさかトマトは嫌いだなんて言えない。
断れずに、あたしは素直に手に取った。ずっしりと重みのある真っ赤なトマト。
玄関前の段差に座って、ジッとトマトと睨めっこをする。
和子さんはまた畑に行くと言って、野菜の森の中に消えていった。
食べたふりをして、部屋に置いておこうか。だけど、そんなことをしたらトマトが悪くなってしまうし。ずっとは置いて置けないし。
もし、一口食べて無理だったら正直にトマトは苦手ですって言うしかない。
つるりとしたトマトの表面に、思い切ってかぶりついた。
かみごたえのある果肉、中の種の部分がじゅわりと溢れてくる。
「……おい、しい」
いつも食べているトマトよりも何倍も味が濃い気がする。美味しいって自然と出てしまうくらいに旨みを感じて、一気に半分食べてしまった。
両手で持たないとはみ出してしまうくらいのトマトは一人で食べるには少し大きいと思ったけれど、全部食べ切ってしまった。今まで食べたトマトのどれよりも、美味しいと感じたことに驚いた。
「和子さんのトマト、すっごく美味しかった」
「だろう? ばぁちゃんの野菜はなんでも美味いよ。ハヅキもうちに来てから食えるようになったもんな、ナスとピーマン」
「別に食えてたけど、食わなくてもいいって感じだっただけだよ」
「そーなのー? ハヅキのとーちゃん全然食べないって困り果ててたじゃん」
「勝手に困ってたんだよ。知らねーし」
「なんだよ、とーちゃんに優しくしろよ」
「……うるせーし」
昨日と同じ時間。三人が帰ってきて一気に賑やかになった。今日は玄関先でトマトにかぶりつきながら騒いでいる。
「今日の夜ご飯はナスとピーマンの味噌炒めと、パプリカの肉詰めだってよ。みんなハズキの好物じゃん」
ははっと笑いながらキカくんがハヅキくんの肩を叩いた。
「ハヅキがくるとハヅキメインだからな、うちの食卓」
「……悪かったな」
なんとなく、照れているような表情をして、嬉しそうなのをごまかすみたいにそっぽを向いたハヅキくん。そんなあたしに、茹でたてのとうもろこしを食べながら、アオイくんがこっそり教えてくれた。
「ハヅキんちお母さんいないんだ。だから、キッカんとこにしょっちゅう来てご飯食べてくんだよ。ハヅキのお父さん仕事で帰りもいつも遅いしさ、そのまま泊まってくこともあるんだよ。僕は毎回粘っても連れ帰されるんだけどねー」
悔しそうな顔をしながら、とうもろこしのきみをプチプチと噛み締めるアオイくん。
そうなんだ、ハズヅキくんはお母さんがいないんだ。お父さんと二人暮らしなのかな。
そのお父さんも仕事で忙しいんだったら、きっとお家の中はひとりぼっちで寂しいのかもしれない。
キカくんと楽しそうに笑っているハヅキくんを見て、最初の近づきがたい印象が少しだけ薄れた。昨日、あたしのことを、ハヅキくんも仲間だと言ってくれた。すごく、嬉しかった。なにかあたしに出来ることがあるなら、ハヅキくんが寂しくないようにしてあげる、お手伝いがしたい。
すっかり夏野菜を満喫した三人はなぜかあたしとパパの部屋を占領して寝転がっている。
まわる扇風機の音と、けたたましい蝉の声しか聞こえてこない。時折、スースーと、右からも左からも寝息が聞こえてきた。
「今日、プールの授業が二時間続けてあったらしいの。きっと疲れたのね。探検はまた明日ね」
静かに笑いながら部屋に入ってきた珠恵さんが、腕にかけて持ってきた大判のタオルを一枚ずつ広げて三人のお腹にかけていく。
「ミナちゃん、パプリカの肉詰め作るの、手伝ってくれないかしら」
にこりと微笑む珠恵さんに、あたしは大きくうなづいた。
半分に切られた大きな赤、黄色、緑のパプリカに片栗粉がうっすらと表面を覆う。大きめのスプーンを渡されて、「すくって入れてね」と用意された肉だねをテーブルの上に置いてくれた。対面して座り、珠恵さんと話しながら詰めていく。
ハヅキくんがパプリカの肉詰めが好きだと言う話から、お母さんの話になった。
ハヅキくんのお母さんは、体が弱くて、ハヅキくんを産んですぐに亡くなってしまったらしい。とても優しくて綺麗な人だったと、珠恵さんは少し悲しそうに目を伏せて、残念そうに笑った。
ハヅキくんは、お母さんのことを知らないのかな。生まれてすぐに亡くなってしまったなんて、きっと覚えていないんだろうな。
ふと、東京を出てくる時に見送ってくれたママのことを思い出した。
最近は喧嘩もするようになっていたママ。あたしの気持ちを分かってくれなくて、言っても話を聞いてくれなくて。返してほしい言葉とは逆の言葉が返ってくるから、つい、あたしもその言葉に強く返してしまうことが多かった。
わかってくれないママが悪いし、すぐ怒るんだ。どこか上の空でも、優しく話を聞いてくれるパパの方がよっぽどあたしは好きだ。ママなんて、いなくてもいい。
だけど、実際にママがいない生活なんて考えたこともない。
ママの手料理は大好きだ。なんだって美味しいし、あたしが少しでも食べないと、味を変えてくれたり好きなものに混ぜてくれたりして工夫してくれる。あれって、実はママの優しさだったのかもしれない。
ハズキくんは、自分のママの手料理を、食べたことがないんだろうな。
「ミナちゃん!」
慌てるような珠恵さんの呼びかけに気がついて、あたしはハッとした。
「それはいくらなんでも詰めすぎよー! 肉団子みたいになってる! あははは!」
手元を見てみれば、パプリカが見えなくなるくらいに山盛りに積まれた肉だね。涙まで出して笑っている珠恵さんに、恥ずかしくなって急いでボールに削ぎ落とした。
「なにか考え事してたんでしょ?ハヅキくんのことは大丈夫よ。ちょっと今は反抗期に入っているだけ。ご飯の時にもしかしたら、お父さんとのバトルが見れるかもね」
ふふ、と楽しそうに笑って、珠恵さんは鼻歌を歌いながら残りのパプリカに肉だねを丁寧に詰めていく。
反抗期という言葉に、自分も例外ではないなとドキリとしつつ、あたしも慣れない手つきで次のパプリカを手に取った。
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