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はじまり
新幹線のホームに降り立つと、東京とは違う空気の柔らかさに驚いた。思わず深呼吸をしたくなる。スー、ハーと鼻から吸い込んで口から吐き出す。胸いっぱいに吸い込んだ空気が少しだけ混じった雨の湿気と草木の青い香りでいっぱいに満たされた。
「おいしい!!」
「……なにを言ってるんだミナ、ほら行くよ」
パパがあたしの行動を見て呆れたように言う。スーツケースを転がしながら歩き出すから、慌ててついて行った。
夏休みにはまだ早い七月の初め。あたしはパパに連れられて新幹線で約一時間半。小学五年生にして初めての遠出をしてここへ来た。ワクワクが止まらない。
目にみえる景色が今朝までとは全然違うし、なによりも空気が美味しい。この空気でお昼ご飯が満足してしまうんじゃないかと思ってしまうくらいに、さっきから深呼吸が止まらずにいる。
「お昼は洋さんのところで用意してくれているって言うし、迎えも来てくれるらしい。ちゃんと挨拶しような」
「うん。洋さんは忙しくないの?」
「今日はパパたちが来るからって、筆を置いてくれたみたいだよ」
「え! 話しかけても大丈夫なのかな?」
「うん、聞きたいことがあったら聞くといいよ」
「わー!! うれしい! たくさん本のこと聞こう!」
張り切るあたしに、パパは優しく微笑んでくれた。
パパの知り合いの松風洋さんは、有名な詩人だ。内容はあたしにはちょっと難しくて、洋さんの本は読んだことはあるけれど、理解はできずにいた。最近、物語を書いたらしくて、有給を持て余していたパパに見てほしいと白羽の矢がたった。だから、あたしの夏休みを利用して,旅行がてらにやってきた。夏休みを待たずに来たのには,訳があるけれど。
駅から出ると、一台の軽ワゴン車があたしとパパの前で止まった。
「いらっしゃーい、康太さん、ミナちゃん」
助手席側の窓が開いたかと思えば、そこから大きく手を突き出してぶんぶんと振ってくる女の人の姿。ショートボブで笑顔がとても素敵な元気いっぱいの人。誰だろう?
「あー、たまちゃん迎えありがとう」
パパも大きく手を振ると、あたしの方を振り返って「珠恵ちゃん、洋さんの娘さんだよ。迎えに来てくれたんだ。ちゃんと挨拶してから乗ってね」と、先を行く。
「結構な荷物ですね! 後ろ積んでください」
車から降りてあたし達の荷物に驚いた珠恵さんの後ろに、男の人がいることに気がついた。運転席でハンドルを握ったまま真っ直ぐ前を向いている。白髪の長い髪を後ろで一つに結んでいて、鼻の下のヒゲも白髪が混じっている。
「あれっ、洋さんも来てたんじゃないですか! あいっかわらず影薄いっすね」
豪快に笑いながら、パパも運転手の存在に気がついて流れるように助手席へと乗り込んだ。
あ、この人が、洋さんなんだ。
「ミナちゃん、荷物こっちにいいよ」
珠恵さんの声に、あたしはハッとして持っていたキャリーケースの持ち手をしまうと、空いている場所に載せてもらった。
「後ろに乗って」と言われて、車に乗り込む。
「あ、はじめまして。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げてから、後部座席へと乗り込む。くるりと振り返ったパパは笑顔、洋さんとはルームミラー越しに目があって、少しだけ口角が上を向いてから片手を上げてくれた。
「ごめんね、うちのお父さん無口なの。でも、ミナちゃんが来てくれたことはすっごく嬉しいはずだよ」
出発した車の中、隣に座る珠恵さんが小声で言ってくれた。
あたしのイメージする詩人の洋さんそのものだったから、珠恵さんが謝ることはない。作家さんや難しい本を書く人は、なんとなく厳格なイメージを持っていたから、それとピッタリと当てはまったことが逆に嬉しく思ったほどだ。
少しずつ、話を聞けたら嬉しいけれど、やっぱり無口で無表情な洋さんの顔は少しだけ、怖いかもしれない。
しばらくして町を抜けると、両側に田圃道が続く。遠くには山も見えるのかもしれないけれど、あいにく今日は曇っていて、先ほどからぽつりぽつりと雨が窓に落ちてきていた。
ワイパーが必要になるくらいではないけれど、遠くには黒い雲が広がっているから、きっと今日は一日雨降りになるのもしれないなと思った。東京では見上げてみても空なんてちっちゃくしか見えない。ここの空はなんて広いんだろう。これが青空だったら、きっと今の何倍も素敵なんだろうな。ワクワクする気持ちを抑えながら、目的地の洋さんのお家まで着いた。
濡れないようにと、カーポートの着いた駐車場に停めてくれて、荷物を家の裏から運んでもらった。
小雨のうちに玄関へと入ると、見計ったように大粒の雨が落ちてきた。
「あらあら、本降りになってきたわね、早く中へどうぞ」
パタパタとスリッパの音を立てながら、女の人が出てきた。
「ただいまー、濡れる直前だったからセーフだよ」
「和子さん、こんにちは。お世話になります。こっちは娘のミナです」
「こ、こんにちは」
パパに背中を優しく押されて前に出されると、あたしは頭を下げた。
「わぁ、大きくなったねぇ。出産祝いのお返しで見た写真以来だから、おばちゃんびっくりだよ」
あたしの姿をまじまじと見て来るのは洋さんの奥さんの和子さんだとパパが説明してくれてから、家の中へとお邪魔する。
お昼ご飯まで少し時間があるからと、パパは洋さんと書斎へと入っていってしまった。
リビングに残ったあたしは、珠恵さんが持ってきてくれたオレンジジュースのグラスを見つめていた。
「ミナちゃんって、何年生?」
「あ、五年生です」
「え! ほんとー? うちのキカと一緒だ。そのうち帰ってくるだろうからよろしくね」
「あ、はい」
そっか、夏休みに入る前に学校を休んできたあたしと違って、本当なら小学生はまだ学校なんだ。
今日から約一ヶ月。洋さんの家でお世話になるとパパは言っていた。ここに、あたしと同じ歳の子がいるなんて聞いていなかった。そっか、キカちゃんかぁ。どんな子なんだろう。少しだけ、不安が胸の中に滲む。
お昼ご飯をご馳走になってから、パパと一緒に洋さんの書斎にお邪魔した。
縁側、さきほど強くなった雨はだいぶ弱まって、見上げた空には灰色の雲から所々青が見えた。障子戸を引くと、畳の部屋の壁に棚があってびっしりと並ぶ本。重厚な机に社長が座っていそうな立派な椅子があって、洋さんは先ほどはかけていなかったメガネをしてそこに座っていた。
あたしが入ってきたことに気がつくと、メガネの縁から目を覗かせて、洋さんが無言のまま手招きをする。
「ミナに読んでほしい本があるんだって」
「え……」
パパの耳打ちに胸が弾む。
ゆっくり洋さんのそばまで近付く。メガネをはずして、手にしていた本をあたしへと差し出してくれた。それは、小さな文庫本だった。
「この町には、秘密があるんだ」
「……え?」
急に、それまで無言だった洋さんがあたしをまっすぐに見つめて話し出した。
「時あかり、青嵐が吹いたら、一気に走り出せ」
急に、窓が開いているわけでもないのに、あたしの横を突風が通り抜けた気がした。
「この本には、実在する場所が書かれているんだ。完結しているんだが、どうも私には気に入らない。この本を、過去の私に返してきてほしい」
「……え?」
真剣に真っ直ぐあたしのことを見て話す洋さん。だけど、え? 過去の洋さんに返してきてほしい? どういうこと?
詩人の言うことは、やっぱり難しい。
あたしが混乱してパパの方を振り返ると、パパも困ったように笑っているだけ。ほら、パパもなんのこっちゃと思っているよね?
返答に困っていたあたしの手に本を持たせて、洋さんは「頼んだ」と言ってゆっくり立ち上がり、部屋から出るようにと障子戸を開けた。
リビングに戻ってきて、パパに「どういうことだろう?」と聞いてみても、パパは困ったように首を傾げるだけ。
「洋さんはパパよりもミナに用事があったみたいだね。とりあえず、その本読んでみなよ」と言われて、あたしとパパ用の部屋として用意してもらえた一間で座布団に座り、テーブルに伸ばした腕、本を開いて見る。
すっかり晴れた空には日差しが戻り、すぐ裏の杉林にいる蝉が鳴き始めた。扇風機の生ぬるい風を浴びながら、額に滲んでくる汗も気にならないほどに、あたしは一行目から本の世界観に魅了された。
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