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友人と休みを取ってちょっと羽を伸ばしに温泉まで行こうということになった。
福岡県からレンタカーで高速に乗りおよそ一時間半。私と友人の白鳥は佐賀県にある温泉旅館に到着した。
「部屋広っ」
「わー景色も凄い」
「ここ露天風呂がいいらしいよ」
「食事も有田焼に乗ってくるんだって、贅沢だよね」
「お茶を使ったお酒もあるって」
「飲みたい飲みたい!」
私たちは荷物を置いてひとしきり騒ぐと、並んで温泉に入った。
「最高」
「最高」
「もう死んでもいい」
「もう死んでもいい」
「ちょっとオウム返しやめてよ」
「ごめんごめん、オウムじゃないのにね」
「それにしても、凄い旅館だね。よく部屋取れたね」
「飛ぶ鳥を落とす勢いの人気旅館で、予約取るの大変だったんだから」
「へえ、気を付けないと」
「でも少し前までは閑古鳥が鳴いてて、大幅にリフォームして復活したんだってネットに書いてた」
「リフォームのためにこの辺の木を切っちゃったから閑古鳥がいなくなっちゃったのかも」
「うふ、ほんとだね」
私はすぐにのぼせてしまうので、烏の行水ですぐにあがると先に着替えて部屋で白鳥を待った。
そうこうしていると白鳥が戻るのと同じタイミングで夕飯が運ばれてきた。
夕食はご当地食材をふんだんに使った懐石料理だった。前菜に胡麻豆腐や浅利と分葱の酢味噌和え、それから鯛やしまあじのお造り、蛤の吸い物に天ぷら盛り合わせ、そして佐賀牛のステーキ!
「やば」
「ほんと、やば」
あまりの美味しさに私たちは語彙力すら失ってしまった。お腹が膨れてくると羽休めで日本酒をちびちびと飲み、また旬の野菜や魚を口に運んだ。人生にこのような幸福があるのかと、信じられなくなるような心持ちだった。
「今日、あんたと来れてほんとに良かったよ」
食器が下げられて二人きりになると白鳥が言った。
「ほんとだね、あ、よかったらもう一度温泉行かない?」
「いいね!」
私の誘いに白鳥はすぐに立ち上がった。
「生き返るね」
「ほんと……」
私たちは露天風呂に浸かり、星を眺めた。旅行の中でも温泉とは特別なものだと私は思う。羽を伸ばすどころか、羽が溶けてなくなるような、そんな気分だった。そして温泉ほど自分をさらけ出せる場所も、またないだろう。
「なにか話したいことがあったんじゃない?」
私は言った。あまり自分のことを話さない白鳥だったが、今日はどこかそわそわとして、いつもと感じが違っていた。
「あ、やっぱバレてた?」
「分かるよ、友達じゃん」
「実は上司とあんまりうまくいってなくてね」
「少し前に話してた、厳しいって評判の上司?」
「そうそう、この間なんてちょっとした失敗をずっとぐちぐち言われちゃって、悔しくて泣いちゃった」
「そうなんだ……」
白鳥は私と違って気丈で何事にも動じないように見えるのだが、意外と繊細なところがあるのを私は知っていた。今回の温泉旅行も、珍しく白鳥から誘いがあったのは、上司との関係に思い悩んでいたのだろう。
「一度上司の企画に口出ししちゃったことがあってね、それで目を付けられたのかも。雉も鳴かずば撃たれまいって言うし、そんなことしなきゃよかったのにね」
「白鳥の場合、能ある鷹は爪を隠す、だと思うけど」
「そんなことないよ……」
「でも私は、白鳥には鳴きまくってほしい、爪なんか隠さないでほしい」
「なにそれ」白鳥は小さく噴き出した。
「その上司には分かんないかもしれないけど、周りの人たちは白鳥の良さは伝わってると思うよ。そんな上司のために、自分の力を発揮できないなんてもったいないよ!」
「……そうかな、ありがと」
白鳥は真っ赤な顔で頷いた。
かくいう私ものぼせ上って真っ赤になっており、二人して慌てて温泉から上がった。
夜が更けると私たちは布団を並べて眠った。なんとも幸せな夜だった。
翌朝、私たちは部屋で朝食を食べ、荷物をまとめた。夕方に予定があり、もう帰らなければいけないのだった。
「立つ鳥跡を濁さずって言うもんね」
私は布団を畳みながら言った。名残惜しさを感じながら、私たちは部屋をあとにした。
「羽伸ばせた?」
私が尋ねると、白鳥は思い切り羽を広げてみせた。真っ白な羽は大きく、本当に少し伸びているのではないかという気がした。
「私、帰りは自分で帰ろうかな」
「あーずるーい」
私もそうしたいのに、白鳥は一人だけ真っ白な羽を二三度羽ばたかせると、空へと飛んで行ってしまった。地元まで飛んで帰るつもりなのだ。
私はレンタカーに乗り込むと、窮屈に羽を縮めて車を発進させた。
よほどリフレッシュできたのだろう、窓から見上げると白鳥の姿はすでに雀の涙ほどの大きさで、バックミラーに写る私の顔は豆鉄砲を食らったときのようになっていた。
遠くで一度、白鳥が大きな声で鳴いた。私は心から来てよかったと思った。
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