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「クソ、やられた……」
現実を受け止めきれないので、俺はさっきから天井ばかり見つめている。さすがは高級ホテルだ、真っ白でしみひとつない。視界に入ってくる茶色くふわふわな髪の毛や、困ったように八の字に曲がった眉、そしてきゅるるんと音がしそうなくらいに潤んだ黒い瞳なんて、まったくもって目に入ってなどいない。
…いない。
「どうしてこっち向いてくれないんですか、先輩」
どうして俺は今、自分より6つも年下の部下に押し倒されているのだろうか。
「嘘をついたのはごめんなさい…でも俺、あ僕、先輩に嫌われたくなくて」
今更かわいこぶろうったって無駄である。また視線をそらそうとしたが、ついに声の主が覆いかぶさってきたため、俺の視界にはたくましい胸板しか映らなくなってしまった。
「ぐえっ」
固いし重い。腹筋6LDKくらいあるかもしれない。この野郎、無駄に鍛えていやがる。俺と同じ社畜のくせに、生意気だ。別に…たくましくていいなとか思っていない。…いない。
「ごめんなさい、たくさん謝るから、嫌いにならないでくださいいい」
23歳にもなって、おいおいと泣きまねまで始めた此奴に、俺は決して騙されない。1度目はともかく、2度も騙されてなるものか!
「それに。慎介さんだって…気持ちよかったでしょう?」
やめろ。俺より10㎝も身長高いくせに、上目遣いしてくるな。しかも、パチパチと長いまつげで瞬きなんかしてきやがる。こいつ、自分が端正な顔立ちをしていることを十分に把握したうえで、わざとやってるな…
俺は固く目を閉じ、心の中で何百回目かのため息をつき、脳内でこれまでの経緯を冒頭から振り返り始めた。つまり現実逃避である。
俺は立花慎介。29歳、平均身長・平均体重。特筆すべき長所や経歴はない、どこにでもいるサラリーマンだ。ただ俺という人間を構成する特徴を1つだけ挙げるとするなら、ゲイであることだろうか。物心ついた時からなんとなく、女性ではなく男性を目で追っている自分に気が付いた。田舎の学生であった俺は、自分のアイデンティティを理解してくれる同士を求め、大学進学とともに上京した。
出会いの店へ踏み出すと、求めていたコミュニティーはあっけないほど簡単に見つかった。受け攻めそれぞれ、人並みに経験も重ねた。そして気づいた。
俺は、攻めたい側の人間だ。そして、できれば自分より年上のイケオジをリードしたい。優しくしたいし、甘やかされたい。いつもは格好よく渋い魅力を放つ男を、俺の手でひん剥きたい。そして俺の前でだけ恥じらい可愛くあえいでほしい…ああ想像しただけでたまらない!!
しかし俺の性癖はなかなか特殊らしく、理想の相手は一向に見つかる気配がなかった。職場のイケオジはみんな結婚している。また平凡な容姿や重ねた年齢が災いしてか、近頃は攻めでなく受けを求められることが多くなってきた。理想を追い求め、誘いを断り続けているうちに、すっかり夜はご無沙汰になってしまった。つらい。
「慎介さあ、たまには年下の子とか同年代の子の相手してみたらいいんじゃないの?あとたまには受けやってみればいいじゃん」
なじみの仲間との飲み会では何度もそう言われたが、俺はあきらめなかった。
「わざわざ東京に出てきたんだ!希望は捨てきれない!俺はイケオジの彼氏を作る!!!」
俺は高々とこぶしを挙げた。
「(あーあ、慎介って割と人気あるのに…この変な性癖なければな。ほんともったいない)」
「(自分は平凡だっていうけど、顔整ってるし、食べ物もぐもぐ食べてるところとかリスみたいでかわいいし、酒に弱くて泥酔してるところとか無駄に色気あるよな)」
「(これ俺の勘だけど、慎介ってたぶん攻めじゃなくて受けで花開くタイプだと思わん?)」
「(わかる!!!!!!)」
「おい!お前らなんか言ったか?はやくイケオジ紹介してくれよ~」
「HAHAHAHAHAHA(いるわけねえだろ)」
そんなこんなで、俺は飲み会のたびに愚痴を垂れ流し、仲間に生暖かい目で見守られることを繰り返していた。
しかし、そんな俺の前になんと、理想ど真ん中のイケオジが現れたのである。つい1週間前のことだ。
それは行きつけのバーでのことだった。このバーは表向きは普通のバーで、女性客も多いが、このあたりのゲイ界隈には有名な出会いの店である。雰囲気も良く、バーテンダーの腕も確かなので、仕事終わりによく利用していた。俺はその日、仕事で疲れを感じており、馴染みのマスターに少し話を聞いてほしくて店を訪ねたのだが、あいにくマスターは女性客の接客で忙しいようで話す暇がなかった。
「しょうがない、また今度にするか…」
一杯だけ軽いカクテルをオーダーし、ちびちびと飲んでいると、横に男が座る気配がした。ムスク系の香りが鼻腔をくすぐる。
ちらりと横目で見ると、黒のハットに銀縁の眼鏡をかけたスーツ姿の男性がそこにいた。ハットからはきれいな銀髪がひと房垂れている。マスクをしており、また深く被ったハットの陰で目元がはっきりと見えないが、薄暗い照明に照らされながら、頬杖をついて妖しく俺を見つめる男からは大人の余裕が感じられ、ナイスミドルの雰囲気を醸し出している。
「ここ、いいかな?」
「あ、はい…」
「…」
少し気まずい沈黙が下りる。俺は心の中でガッツポーズをしていた。やばい。好みど真ん中である。会社でのことも忘れられそうだ。
「君、ため息をついていたけど…何かあったのかい?」
「えっ…聞こえてました?」
そんなに大きくため息をついていたのだろうか。恥ずかしい。
「いや違うよ。俺がずっと君を見つめていたから気づいただけだ。安心して」
彼はそう言って、俺の右手にそっと左手を重ねた。
「こんなおじさんでよければ…君の悩みを聞かせてくれないかな」
「はっ、はひ…」
やばい、かっこいい。格好良すぎる。どうしよう。今日は俺の命日か?
「…そうか、君の後輩はなかなか難しい人、なんだね」
俺は4杯目のカクテルをビールのようにあおりながら、大きく首を振った。
「難しいっていうか、もう、どうしたらいいのかわからないんですよ!彼が優秀すぎて!エリートなのにどうしてウチみたいな中小企業に来たのか謎すぎます。優秀すぎるからもう転職したほうがいいってたくさん勧めてるんですけどなぜか全然応じてくれなくて…しかも、俺と仕事がしたいからとか言って、本社への引き抜きまで断ったんですよ?上司は俺の教育が悪かったんじゃないかってカンカンだし、本社の人間にはさんざん嫌味を言われるし、ほんと最悪で」
「そうか…せんぱ、いや、き、君はその…その後輩のことが、き、き、嫌いなのかい?」
「なんで急にカミカミなんですか?顔赤いし」
「うっ…いや、ははは」
「変なの。えっと…後輩のことは嫌いじゃないですよ。普通、それだけ優秀だったら性格悪いとか何か欠点があると思うんですけど、普通に人当りもいいし俺のフォローまでしてくれるし、あとイケメンだし、すごい奴なんです。けど、一緒に仕事しているとみじめな気分になるんですよ。そいつはこんなにすげえのに、俺はいつまでたってもただの平社員だし、部下の教育もうまくいかないこと多いしで…」
「そんなことない!!」
突然イケオジが俺の手を強く握ったので、びっくりするが、イケオジはお構いなしで続ける。
「せんぱ…いや君は他の奴の仕事まで引き受けて、文句ひとつ言わずやり遂げるし、パワハラ上司の矛先をさりげなく自分の方に向けることで、いつも部下や周りの人間を助けてる。何より、せん…君がいつも熱意をもって仕事をしているのが伝わってくるんだ。そんなところが、俺は」
「(好きなんだ)」
最後イケオジが真っ赤になって俺の手を握ったところまでは覚えているが、それ以降の記憶は、5杯ものカクテルの威力によってかき消された。
「(ああ…頭ふわふわする…)」
うーん。
頭が痛い。目を開けたいが、瞼が重くて持ち上がらない。目の前に、誰かの気配を感じる。なぜか安心感がある。
「せん、じゃなくて…君は…寝顔もかわいいなあ」
そういうことは、俺に言わせてよ。
「ふふ、なんで?」
俺と楽しいこと、しよう?
「そう言って、いつも、誘ってるの?」
意地悪な人だね。いつもはこんなことしない。
「じゃあ、俺だけ?」
うん…あなたをひん剥きたい。
「いいよ、脱がせて」
優しい手がそっと俺の右手をつかんで、彼の心臓へと伸ばされた。
熱を帯びたからだから、直接どきどきと鼓動が伝わってくる。目は開かないけど、彼が服を着ていないことはすぐにわかった。
ひどい…もう着てないじゃん。意地悪だ。
「ごめんね。今度は俺の番」
そういわれるなり、俺はあっという間に手際よく脱がされてしまった。
「あついね…」
溶けそうだ。もう、どうにかしてほしい。全身、干からびて死にそうだ。そっと両腕を巻き付けようとするけれど、やさしく押しとどめられてしまう。
「どうしてほしい、言って?」
しばらくしていなかったので、このまま生殺しにされてしまっては敵わない。
「き…きもちよくして…」
「ん」
唇が降ってくる。額に、耳に、首に、やがて全身に…。
俺は与えられた熱を甘受し多幸感に包まれながら、そっと意識を手放した。
そして俺は現実に戻る。
「せんぱい…」
しゅんとした顔でうなだれてみせても無駄だ!
俺は胸板を強く押し返し、真正面から憎き後輩を睨みつける。
「ゲイの俺をからかって楽しかったか?」
「からかってないです…」
「嘘つけ」
「ほんとに違うんです。話を聞いてください。僕、たまたま入った居酒屋で先輩がお友達と話してるの聞いちゃって。先輩が好きだったけど、男だし、叶うはずないって思ってたからうれしくて。それで、どうにか、いけおじ?になれるように頑張ってたんです。そうしたら、たまたま、先輩があの店に入ってきたから、僕頑張って演技して…」
今思い返してみれば、出会ったばかりの奴が俺の仕事ぶりを詳しく知っているはずがない。
よく見ると、ベッドサイドテーブルの上に見覚えのある帽子や銀色のウィッグが乱雑に置かれていた。
「お前、阿呆だろ。変装までして」
「だって、俺、どうしても先輩が好きで!あなたがつらい思いするくらいならほんとに転職しようかって思ってた矢先に、あなたがゲイだってわかって、もう、今しかないって思ったんです」
ああ、ほんとに年上紳士の受けが来たって思ったのに。
「ごめんなさい。誓って、最後まではしてません。キスだけです!本当です!」
あいにく、アルコールでふわふわしても、寝てさえいなければ意識は保たれるタイプだ。酔っぱらってホテルに連れてこられ介抱されたことも、ベッドの上での会話も、すべて覚えている。
ああ、俺は平凡攻めになるはずだったのに。
「これじゃあ誘い受けだ。ビッチ受けかもしれない」
「先輩…?怒ってます?」
ああもう仕方ない。
優秀でかっこいい、誰もが羨望のまなざしを向けるようなこいつが、年上で平凡な俺のために変装までして、そしておそらく尾行までして、許しを請う姿を、悔しいけれどかわいいと思ってしまったのだ。
(たまたま2回も同じ店にいるなんて、そうそうあるはずはない。けれど、気づいていないふりをしてやろう。今回は。)
そして、頭のいいこいつが、わざと従順な犬のようにうなだれたりかわいこぶったりするのは、俺を堕とすための方策だろう。こうすれば俺に気に入られるはずだと計算したうえでやっているのだ。
(上手に騙されるのも賢い方法だなんて…一体誰が言ったんだか。)
心は決まった。ただ悟られるよう、俺は鼻を鳴らし、後輩の顎をぐいと引き寄せる。
「…わかった。許す。けど条件がある」
「な、なんですか」
彼がかすかにおびえるのが分かる。焦らすように、俺は唇の端だけで不敵な笑みを作って見せた。
「知りたい?」
餌をぶら下げられた犬のように、ぎらついた瞳。勝算に狂いはないはずだとばかりに強く引き結んだ唇とは対照的に、眉は八の字に下がり、俺の一挙手一投足を見逃すまいと全身が緊張している。
「転職しろ…俺は、職場恋愛はしない主義だ。いいな?」
彼は大きい瞳を爛々と輝かせ、俺に飛びついて、顔中に熱いキスの雨を降らせた。
かくして、年上紳士受けはとんだ年下ワンコ攻めになり、年上平凡攻めになるはずだった男は年上平凡受けとなり、末永く愛し愛されましたとさ。
おしまい。
(とある後輩「年上ツンデレ美形男前受けの間違いです」)
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