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 ——また(まと)に矢が当たらなかった。集中しろ、私。次こそ、しっかり的を狙って放て。周りに気を取られるな。  世界的な感染症も収まり、久しぶりに出た大学の小さな弓道大会で、私はあっさり予選落ちした。  中学の頃からやっている弓道だけど、大学生になった今でもあまり上達していない。単にセンスがないというか、集中力に欠けているというか、とにかくちっとも的に矢が当たらないのだ。  好きこそものの上手なれ、と先輩によく言われるけれど、好きだけじゃあ、どうしようもなく超えられない壁がある。とても高く、とても厚い、目には見えない大きな壁が……いや、そうではないか——。目にはしっかり見えている。見えているけど、ただそれから目を背けたいだけだ。私は弱い。私は本当に弱い。だから、それをいつも痛感させられ下を向く。 「もう弓引くの辞めちゃおうかな?」  我慢し切れず、言葉を吐く。辞める勇気もないくせに、何言っちゃってるんだろう、私。  さっさと着替えて弓道場を後にした私は、来た時に降りた最寄り駅へと向かう。アスファルトの道路横に敷かれた石畳の舗装を、一人でとぼとぼと歩く。仲間がまだ弓を引いているというのに、それを応援する気にもなれなくて。情けないほどメンタルが弱い私は、その場にすらいられない。  石畳独特の凸凹が足裏を刺激する。そんな石畳の延長上には最寄り駅へと繋がる地下階段がある。だから下を向いて歩いていても、地下階段入口までは辿り着ける。  しばらく歩いて行くと目の前には大通りの車道。風を切る車たちのエンジン音と、ピッピと長く音を刻む音響式信号機。側には地下へと続く下り階段。駅へ向かう人たちは地下階段へと歩みを進める。私もその背脚に並んで、同じように地下階段へと一歩踏みだす。足元には歩きやすい白のスニーカー。足袋で歩くよりも、こっちの方が歩きやすくて好き。道着と袴よりも、ゆったりとした黒のロングニットを着て、プリーツスカートを履いている方が私らしくて好き。試合のために結んでいた髪紐を解いて、力無く溜め息をつく。目頭に込み上げてくる透明な涙が、視界を水の中へと落とす。目の前が波打つ。辺りの景色が見えない。すれ違う人たちがぼやけていく。でも、この瞬間だけは、なぜか心地良かった。悔しいのに心が休まる。役立たずの弓を弓袋ごと投げ捨てたいのに、それを愛おしく思う自分がいる。  階段を降り切ったところで歩みを止める。スニーカーの上、足の親指と人差し指の間に弓袋を置いて、ニットの袖口で涙を拭い、顔を上げる。もう試合会場の方には振り向かない。もうそっちは見たくない。そう地下街の奥の方をじっと見やる。  明るくて広い、長い通路が延々と続く。床も、天井も白一色だ。両端には色とりどりの店舗がずらりと並んでいる。中央には大きな丸い柱が何本も立ち並び、歩行者はそれを避けるように左右に分かれて歩いている。その歩行者たちに声をかける売り子の店員さんたち。いくつも並ぶお土産屋さんや雑貨屋さんから、可愛らしい声が聞こえてくる。カフェやレストランの前で静かに並ぶお客さんたちの姿も見える。それと静かに変わるデジタルポスター。地下街は賑やかなはずなのに、なんとなく音が少ない。音が耳に残らない。  清閑な地下街——。立ち止まるのはやめて、また歩きだす。売り子を避けるように、真ん中らへんを歩いていく。柱がある度に、どちらに避けようか迷いながら、駅の方へとふらふらと進む。  あ、あれ、あんなところにピアノが……。  柱を避けると、次の柱の側に立派なグランドピアノがあった。あんなの、あったっけ? と、数時間前の記憶を巡らせる。あの時は試合前ということもあり、会場を目指してスマホの地図を弄りながら歩いていたっけ——地下街をちゃんと見ていなかった。気づかなかった。  突然目に入ったストリートピアノ。地下街の中央、ロープで囲われたところに大きなグランドピアノが置いてある。手入れされているのか、黒の曲線美が輝いていて美しい。それは誰も音を奏でず、静かに居座っている。まるでこの広場の女神のようだ。地下街で清閑に感じたのも、きっとこのピアノの存在が影響しているのかもしれない。雑音はあるけど、その姿が凛とした静けさを放っている。  ——ん? 誰かが、ピアノの側にいる。背の高い男の人だ。  私も近くでそのピアノが見たくなり、駆けだす。弓道よりもピアノの方が好き。ピアノの音色が好き。ストリートピアノを見ると、いつも心が昂る。楽器屋さんに電子ピアノがある時もそうだし、うちの駅前にあるショッピングセンターの家具調アップライトピアノを見つけた時もそうだ。ピアノから手招きをされているように、私は惹かれていく。
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