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――三年前。隕石と共に飛来したウイルスは、非常に高い感染力で、瞬く間に世界中に広まった。何故か人間だけに感染するそのウイルスの、感染者の致死率はほぼ100%。人類は地球上から一掃された。
……ほぼ、というのは、僕が一人だけ例外を知っているからである。
それが僕の妻だ。
平々凡々を自負していた君は、ウイルスに免疫がある特異体質だったのか、まるで映画の主人公のように世界で最後の人類になってしまった。
もしかすると広い地球のどこかには、同じように生き残っている悲しき主人公達が居るのかもしれないが、まだお目にかかったことはない。
……それが僕だったら。どれだけ良かったか。
孤独な惑星に、君一人を残してきてしまった。
一人になって生きる気力を失った君が、僕の部屋の引き出しから見つけた一冊の旅行ガイドブック。
仕事で都合がつかず、ずっと延期してしまっていたけど、新婚旅行は京都に行こうと約束していた。君はそれを思い出したのだろう。僕が蛍光ペンでマークしていたおすすめルート通りに、旅することにしたらしい。
君は一人で、東京から京都という長い距離を、人の居なくなった日本を、運動が嫌いなその足でひたすら歩いてきた。二人の夢の続きを見るために、はるばる旅してきた。
これは世界の終わりをいく、君だけの新婚旅行。
僕はもう、君の隣に居ない。
野宮神社に戻って来た君は、寂し気な絵馬達の下に、黒々と光る亀の甲羅の様な石を見つけた。吸い寄せられるようにふらふらと近付き、気が抜けたようにしゃがみ込むと、冷たい石を撫で始める。何度も何度も、縋るように、一生懸命に撫で続ける。
君が何を願っているのか、訊かなくても分かってしまった。
叶えられなくてごめん。本当に、ごめん。
泣きたくても、もう泣けなくなってしまった僕の代わりに、君が泣く。
いつも僕を小突いてきた、その生意気で可愛い肩が震え、服や地面を滴が濡らした。
誰も居ないのに、隠れるように静かに泣く君。僕は君が泣いているのを見ると、いつも生きている心地がしないんだ。(生きている時からね)
その涙が、いつ君を溺れさせてしまうかと気が気ではない。
“じゃあ、行ってきます”と、空っぽの顔で家を出た君。
僕は突然一人旅を始めた君が不安で不安で、ついて来てしまった。
もしかすると、君が約束の旅行先で、僕を追ってきてしまうかもしれないと思ったんだ。
それは嬉しいけど……喜べない。
僕は君の隣に膝をついて、これっぽっちも信じていなかった亀石に触れる。優しく撫でて、都合よく祈った。
……死者の願いが届くかは分からないけど。君がどうか、もう泣きませんように。悲しみに暮れませんように。
『エゴだけど、君には生きていてほしいんだ』
ふと風が吹き……カサリ。薄汚れた雑誌が、君の足元まで羽ばたいてやってきた。
かつての観光客の落とし物だろうか?泣き腫らした赤い目で、雑誌を拾い上げる君。暫くの間黙ってそれに見入っていたが……やがて、小さく笑った。
「……世界一周ガイドブック?はは、規模が大きいなあ」
地球の裏側まで行ったら、誰か生き残りに会えるかもしれないね。と、君はその目に小さな希望を灯し始める。
「オーロラ、見たいなあ」
『うん、そうだね。見よう。オーストラリアでカンガルーも見よう』
「ハワイでココナッツジュース飲めるかな」
『君なら、なんだって出来るよ』
「わたしなら、どこにだって行けるよね。あなたならそう言ってくれるはずだもん」
君は涙をぐっと拭って、立ち上がった。
そして、人々の朽ちた祈りを胸いっぱいに吸い込み、前を向く。
「そうだ!世界へ旅しに行こう!」
君は自分を勇気付けるように、ガイドブックのタイトルを読み上げた。
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