刺繍と用意。

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刺繍と用意。

「あら、素敵ですね!」  アニスの手元の刺繍を見て、マーサは声をあげた。    マーサはアニス付きの侍女で、三十手前のよく笑う女性である。  グラント家の使用人の中では比較的アニスに歳が近く、また、短い間ではあったがフィリックスの母親に支えていた事もあり、そのためアニスに仕える事になったのだ。 「ありがとう、マーサ」  アニスは微笑んだ。  カテドラル家では家族どころか使用人でさえアニスには無関心であったため、刺繍の出来を褒めてくれる者など皆無であった。 「完成したら、今度こそ応接間に飾るクッションにしましょうよ」 「さすがに、それは……」  アニスは困って俯いてしまった。  元々ひっそりと一人で刺していた刺繍である。  飾った事など一度もない。  だが、あまりにマーサが褒めてくれるので、自室に飾るクッションやテーブルカバーに仕立ててみた。  すると、マーサは勿論、ほかの使用人達も褒めちぎってくれた。  ぜひ、玄関や応接間、客用の寝室にも飾らせてほしいとまで言ってくれた。  カテドラル伯爵家と比べるとグラント家は使用人の数がそれほど多くはなく、また庶民を護る騎士の家系という事もあってか、主と使用人の距離が近く、まるで家族のようであった。  そして、アニス本人には自覚はないが、その真面目で穏やかな性格や少女のような微笑みに、使用人達はすっかり彼女の虜になっていた。  アニスの視線がちらと柱時計に向いた。  それに気付いたマーサがにんまりと笑う。 「そろそろ準備をいたしますか?」 「え……」 「湯を使って、髪も肌も磨き上げないと」 「そ、そこまでしなくても……」  マーサの言葉にアニスが頬を赤らめる。 「なんせ、今日はフィリックス様が久しぶりに家に帰っていらっしゃる日ですからね」  魔物と戦う黒獅子騎士団は多忙を極め、アニスが嫁いでからフィリックスが家に帰ってきた事は数える程しかない。  今日は久しぶりに帰れそうだ、と今朝方早馬が知らせにきた。  アニスと夕食を共にしたい、と伝えてきたのだ。 「料理長も張り切っていましたよ」 「楽しみだわ。いつも、とても美味しいもの」  アニスも刺繍の手を止めて、夕食前の準備をする事にした。  香油を入れた湯で肌を磨き、マーサが丁寧に髪をといてくれた。  華美でない、だが、美しい青いドレスを纏う。    鏡に写ったアニスは頬が上気し、肌は艶やかでとても美しかった。 「……」  だが、嫁いだ日にフィリックスに「妻の役割を求める事はしない」と告げられた通り、彼がアニスの肌に触れてきた事は一度もなかった。      
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