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すみれと黒百合。
アニスは小さくため息をついた。
刺繍を刺す手が止まっている。
(望まれて嫁いだのだと思っていたのに……)
「妻の役割を求める事はしない」と告げたフィリックスの言葉を思い出す。
彼は穏やかに微笑みながら、アニスにそう告げたのだった。
(やはり、あの方が……)
アニスが思い浮かべたのは、常にフィリックスの傍らに付き従う美しい女性騎士であった。
艶やかな黒髪を短く切り揃え、その凛とした姿は黒百合の花を思わせた。
彼女の名はエルザ=レンブラント。
フィリックスとは乳兄弟にあたり、幼い頃から共に育ったのだ、と侍女のマーサから聞いた。
女性でありながら、黒獅子騎士団の副団長として戦場を駆けているという話だった。
「……」
乳兄弟は本当の家族として扱われ、それゆえ色恋は禁忌とされている。
だが、おそらくフィリックスとエルザは恋仲なのだろう。
(だから、私だったのね……)
華やかなキャロラインではなく、これといった特徴のないアニスをと望んだのは、仮の妻を欲したのだろう。
騎士団長と乳兄弟の女性騎士の、禁じられた恋。
「………………嫌だわ、私ったら」
頬を赤らめながら、アニスは小さくかぶりを振った。
まるで、少女時代に読んだ物語のようだ、と思わずときめいてしまったのだ。
本来、アニスはどのような逆境においても決して絶望せず、なお前を向く強靭な精神の持ち主である。
誰からも愛されず、省みられず、それでも歪む事なく生きてこられたのは、彼女の生まれ持った性質ゆえにであった。
そして、カテドラルの家から解き放たれた事により、その本質がアニス本人も気付かない内に表に出始めた。
フィリックスが、アニスをすみれの花のようだと言い表したのは、ある意味的を射ていた。
すみれは、その可憐な姿から受ける印象とは違い、過酷な環境下においてもなお咲く、たくましい花なのだから。
「あの話は確か……」
悲恋で終わったはずだ。
その結末があまりに悲しくて、アニスは毎夜泣いていた。
ならば。
「私が、お二人のために何か出来ないかしら……」
エルザの危惧していた通り、だが、彼女の思っていたのとはおそらく違う方向に、話は面倒な事になりそうな様相を呈してきた。
「うふふ」
まるで、自分も物語の中の登場人物になったようだと笑うアニスの心の奥底に、ちりりとした小さな痛みが走った。
それはあまりに小さく、アニスがその痛みに気付く事はなかった。
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