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扉の開閉音で目が覚めた。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
カーテンのすきまから見える空は、真っ黒。いつだったかアキくんと見た、夜の海を思いだした。鼻先をかすめる、潮風のにおい。底のない世界。
二度のノックののち、返事を待たずに扉が開かれる。
ただいまのあとで、アキくんがいった。
「べつになに食べてもいいって」
「そうなの」
アキくんが、サイドテーブルに買ってきたお弁当を広げていく。お惣菜のにおいと、アキくんが連れてきた、夏の夜のにおい。
「アキくん」
「うん」
「ごめんね」
「なにが」
うつむいて、手、らしきところを、もにゅもにゅ突き合わせる。
「掃除もしてないし、ごはんもつくれなかった」
アキくんは、外で仕事をして、疲れて帰ってきているのに。わたしなんて、ずっと家にいたのに。よごれた部屋で、栄養のないごはんを食べさせてしまうなんて。
「いいよ、べつに」
そういうと、アキくんはさっさとお風呂へ行ってしまった。
この恥さらしが、と父はいった。
この恥さらしが、なんて。ドラマでしか聞いたことがない。さすが昭和の男。
母は、大丈夫? なにかできることがあったらいってね、とはいうけど、たぶんなにもする気はない。昔からそうだったから、わたしはいつも、うん大丈夫、ありがとう、という。
弟のことは、あまりよく見なかった。たぶん、父とおなじ表情をしていたんだと思う。わたしの家族は、もうずいぶん前からアキくんだけ。
ご両親に報せておかないと、とアキくんがいった。わたしは、いいよ、どうせ叱られて終わりだもの、と思ったけれど、アキくんは家族をだいじにする人だから、わたしはしぶしぶうなずいた。うなずくと、とぽ、と不安げな音がなった。
昔からがんばれない人間だったんだ。いつもいつもいいわけばかりで。ひとを責めるのだけは一丁前なんだ。いつかこうなるんじゃないかって思ってた。だからおれは、あーでこーで。
アキくんは苦笑いでうなずくだけで、お父さんのとなりを見たら、お母さんもおなじ顔をしてた。弟の顔は、やっぱり覚えていない。
「聞いた? この恥さらしが、だって。あんなの、いまどきドラマでも聞かないよね」
水槽の中で、肩、らしきところをすくめる。「さすが昭和の男」
「うちの父さんはいわないよ」
「あ。……そうね、そうね。ごめんなさい。そうやってひとくくりにする言い方、よくないね」
水槽の中でしょんぼりする。アキくんが暗いから、笑ってほしかっただけなんだけど。なんだかぜんぶ、うまくいかない。
帰り際、父はアキくんに耳打ちしていた。「あれは、インリーフに送るんだろう?」
インリーフとは、検索したらすぐ出てくる、珊瑚礁うんぬんのあれではなく、わたしたちのような、くらげ化した人間を送りこむ施設のことだ。だから、父のいうあれ、とは、わたしのこと。
インリーフは、見た目は本物のインリーフのようにおだやかで、水温も、心地のよいお風呂みたいなもの、らしい。こう聞くと耳障りがいいけれど、その実態は廃棄処理のための場所であり、入れられたが最後、くらげが逃げないよう、触れるとビリビリする金属の棒に包囲される。それがさながら珊瑚礁のようで、それも相まって、インリーフと呼ばれるようになった。
インリーフ送りになったくらげは、特殊な液体に浸され、細胞からなにから、時間をかけてどろどろに溶かされる。人間らしい思考がなくなった頃合いで、海に廃棄されるらしい。
水槽の中で、わたしは震えた。父の、ごみを見るような目つきを思い出す。人間は、女だけでなく、男もつめたい。
「きみはまだまだ若いんだ。こんなのを背負うことはない」
アキくんがなんて答えたのか。わたしにはわからなかった。
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