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ふよふよ漂って、一日が過ぎる。朝がきて、アキくんが出かけていって、夜がきて、アキくんが帰ってきて、あ、一日終わったんだ、ってなる。
こういう一生でいい。アキくんが帰ってきてくれるなら、それで。
アキくんが、ぼんやりとわたしをながめることが多くなった。ダンスを覚えよう。くらげは、癒やし効果があるって聞いたことがある。それにおもしろさもプラスされれば、完璧。
くらげになって、初めてやりがいをみつけた。わたしは昼夜、コミカルな創作ダンスの練習に明け暮れた。
くらげダンスを披露したその日、アキくんはまただれかと通話をしていた。
大丈夫だって。ありがとう。気にかけてくれて。うん。戻れる可能性はゼロじゃないみたい。ゼロに等しいらしいけど。でも、ゼロじゃないから。うん。だからもう、かけてこないで。仕事以外で。おれは、あの人の家族だから。お願いだから、これ以上、踏みこんでこないで。ほんとうに、ありがとう。ごめんね。
くらげダンスを見たときの、こまった子どもを見るような笑顔じゃない。おだやかで、いまにも泣きだしそうな。愛しいものを見るときの、笑顔。
胸、らしきところが、ちくっとする。
好きになってしまってごめんなさい。
申し訳ないみたいな雰囲気を醸しだしながら、醸しだしてるくせに、目はまっすぐ、わたしを見ていた。なめられてた。わたし。あの人に。あの人、弟とおなじ目をしてた。
あの人は、強い。強くて、自信のある人間。奥さんのいる人を好きになって、好きになってしまってごめんなさい、って。正々堂々、奥さんに謝れる。きっと、くらげなんかにならない。
だから、たぶん、アキくんじゃなくても大丈夫。だから、これ以上、踏みこんでこないで。
母がやってきて、アキくんにお金を置いていった。
わがままだってわかってるけど、勝手だってわかってるけど、あの子をそばに置いてやってくれないかしら。お父さんにはいえないから。少ししか、ないんだけど。
お母さんは泣いていた。泣いていたし、お金は置いていくけど、わたしを連れて帰ろうとはしない。アキくんにすべてを押しつけて、はした金で、なんとかしてもらおうとしている。アキくんが断れないことを知っていて、先回りして、こういうことをしてくる。母はけっこう、そういう人。
「お母さんも勝手よね。お父さんをお母さんが説得してくれたら、もっとお金もらえるのに。あれで助けた気なんだよね。ほんと、こまっちゃう」
アキくんが思っているであろうことを、先回りしていう。アキくんはきっと、いいにくいだろうから。
アキくんは、お母さんが持ってきてくれたお金の入った封筒を、丁寧な手つきで抽斗にしまう。
「でも、泣いてたよ」
「そうだけど」
「わざわざ来てくれたんだから」
アキくんの苛立ったような声音に、ひやっとする。わたし、またまちがっちゃったかな。
最近、こういうことがよくあった。くらげになる前から。なんだか、アキくんのこころとわたしのこころとが噛み合わなくて、焦ってよけいなことをいっちゃって、またさらに噛み合わなくなる。わたしは、アキくんの、はあ、みたいな顔が、怖い。お父さんみたいになっちゃうんじゃないかって。
お父さんをああいうお父さんにしたのは、わたしなのかもしれない。
この頃から、人生を振り返るようになった。こぽこぽ浮かんでは消える水の泡を見ながら、泡ひとつにつき一エピソード、みたいな感じで、映画みたいに振り返った。
子どもの頃からアキくんに出会うまでのエピソードは、振り返ってもぜんぜん楽しくなくて、途中から五倍速くらいで振り返った。
だけど、アキくんに出会ってからの人生は、丁寧に、丁寧に振り返った。それで、思い出した。
あれは、アキくんと付き合うちょっと前。たしか、三回目のデートのとき。向かい側から歩いてくる女の子を見て、わたしはぎょっとした。
マネキンのように細い腕や脚に、糸が縫いつけてあった。洋服にじゃない。直に。血がにじんで真っ赤になった糸が、女の子の肌に、ステッチのように縫いつけてあった。
こういうひとがいるって、噂では聞いたことがあって、どうやらこういうひとは、こころに深い、深い傷を負っていて、でもこころは縫えないから、体を縫うんだって。
初めて見たから、痛ましくて、驚きすぎて、通りすぎたあとで、見た? と訊いた。アキくんは、ああ、うん、と、そっけなく返してきた。
ああいうひと、ほんとうにいるんだね。
わたしの言葉に、アキくんは、
「いいじゃん。ああいうふうに生きるひとがいたって」
さらっと、そういった。
そうだ。そうだった。あの言葉を聞いたとき、わたし、この人と家族になりたい。そう思ったんだった。
否定され続けてきた人生だったから。否定しない人に出会えたのが、なんだかたまらなく奇跡に思えて、うれしかったんだ。
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