くらげのとき

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「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。  アキくんとわたしは、同時に顔を見合わせた。顔、といっても、いまのわたしの、どこが顔なのか。それは、わたしにもわからないのだった。  わたしの顔、らしきところをみつめてから、アキくんは目の前の医師へ向き直る。 「すみません。なんていうか、その……想像より、早いような気がするんですが」 「まあ、こういうのは個人差ありますから」  医師の声はつめたかった。いま、わたしが浸かっている水よりも、ずっと。  居心地が悪くなって、もぞもぞ、ぷるぷる、身をよじっていたら、アキくんが掬いあげてくれた。  医師はつめたくて、女だった。女は、つめたい。大体がじぶんのことしか考えていない。申し訳ない、みたいな雰囲気を醸しだしながらも、平気でひとのだいじなものを奪おうとする。 「どうにもなりませんか」 「なりませんね。こういうのは、ご本人次第ですから。ご本人の意識が変わらないことには」  つとつと、よどみなくいって、近くの看護師に目配せする。次の患者呼んで。  アキくんは頭を下げて、わたしは下げなかった。いまのわたしの、どこが頭なのか。わからなかったからだ。 「わたし、あの人好きじゃないのよ」  病院の駐車場で、アキくんに運ばれながらわたしはぶうたれる。アキくんの歩くリズムに合わせて、わたしの体がたぽたぽいう。 「意識はさ、変えようとしてるの。ほんとよ。あの人、いかにもわたしにその気がない、みたいにいってたけど。そうじゃないの」  すれちがうひとたちの視線が痛い。この、ぷるっぷるの肌に突き刺さる。 「でも、あの人、あんまり好きじゃないけどさ。評判はいいものね。あの人が診た患者さん、人間復帰率いいものね」  後部座席のドアを開けて、わたしをそっと座席に置く。ぷるん。ふう。どこが口なのかわからないけど、ほっと息をつく。横長のところに置かれると、わらび餅になった気分。パック詰めされたわらび餅が、溶けていっこになって、ぷるぷるしてる、みたいな。 「あと三回ってさ。きょうをいれて三回かな? それとも、いれないで三回かな?」  アキくんは、うん、うん、ってうなずいた。  一ヵ月前の朝、起きたらくらげになっていた。肢体はとろりと褥に溶け、人間の輪郭をうしなっていた。 「アキくん。わたし、くらげ化しちゃった」  にゅるん。首、らしきところをなんとか動かして、起こしにきた夫を見る。 「布団から出られないの。手も、ほら。……これ、手なのかな。わかんないけど。こんな、にょるにょる」  ほら、ほら、見て。必死にくらげの体をみせつける。  アキくんは、しばらくわたしをみつめたあと、あー、おう、といった。 「朝ごはん、食える?」 「この体って、なに食べたらいいんだろう」 「調べとく。食欲は?」 「ない」 「そう」  アキくんは、さっさと部屋を出ていってしまった。  たぽん。寝返りをうつと、とうめいな体が枕からこぼれる。  こまったなあ。まさかわたしが、くらげ化してしまうなんて。遠い、他人事のはなしだと思っていたのに。あすは我が身、とは、まさにこのこと。  人間をがんばれなくなった人間は、くらげになるらしい。くらげといっても、本物のくらげになるわけではない。くらげみたいな姿になる。前兆がある場合もあるけど、わたしみたいに、ない場合もある。せめて前兆があったなら、早めに病院に相談するとか、なにか対策がうてたのに。まさかわたしが、人間をがんばれなくなる日がくるなんて。  なんとか体を起こそうとしてみる。無理。ぜんぜん無理。だって、ぷるっぷるだもの。がんばれる気力、というか。そういう、骨、みたいなものがない。  どうしてこんなことになってしまったのか。記憶をたどろうとするも、うまくいかない。なにかあったってわけでもない。仕事もうまくいってるほうだし、アキくんとだって、まあまあうまくいってる。両親や弟とは、まあ、たしかに疎遠だけど。そんなの、いまにはじまったことじゃないし。  なんでだろう。なんでこんなことになってしまったんだろう。  原因を探ろうとするも、意識がとろとろおりてきてしまって、もう。  布団という名の水槽に、とぷとぷ沈んでいく。
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