神様の匙加減

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大阪赴任から本社に戻ってくることになった。 このまま、大阪でもいいかなと考えていた矢先だったので、はっきり言って面食らった。 3年はいると思っていたから。 向こうで担当したプロジェクトが思いのほかヒットし、その業績が認められたからだと編集長は電話で話していたが怪しいもんだ。 きっと、何かがある。 そう思いながらも内示の後、2週間後には転勤の辞令がでたことで、まずは住むところからと東京に部屋探しに来ることになった。 たかが2年と思っていたが、東京は瞬きしている間にも姿を変えるようだ。 僕の知っている東京が変貌していた。 心細さも手伝ってか、まずは大学時代から転勤するまで住んでいた馴染みのエリアに足が向いていた。 所々新しい店が出来ていたりはしたが大きな様変わりがなかったこともあって、懐かしい場所を拠点に部屋探しをスタートすることに。 3月は入学や転勤も重なり、下手をすれば今日中には決まらないかと腹を括っていたが、なんとキャンセルが出た部屋があるということで行ってみると前に住んでいたハイツと5分とかからない場所で見つかった。 全て完璧とはいかないまでも、9割の条件を満たしていたので即決することにした。 住むところにこだわりはないが、これも何かの縁だと思うことにしよう。 アップグレードして初マンションとなる。 ここまででなんと1時間23分。大阪の家を出てから6時間強で終了となった。 幸先がいい。 気が重かった転勤も考え方次第でなんとか前に進むのかもしれない。 学生時代に通った定食屋はまだやっているんだろうか? そう思って歩き出したが道を間違えたのか辿り着かず、和田掘公園まで来ていた。確かここにも食事処があった気がする。 井之頭五郎が僕を呼んでいたんだろう。 縁が数珠つなぎのように繋がっていくようだ。 この次も何かが僕を呼んでいるんだろうか。 そんなことを考えながら入り口で記名すると案外早くに入店できた。 せっかくだからと釣り堀が見える席が空いていたのでそこに腰を下ろし、オムライス(スープ付)を注文する。 昼下がりにまったりと、特に予定もなく(最大重要事項は気が抜けるくらいにあっさりと終わってしまった)過ごす土曜日。 僕はどこにいるんだろうと釣り堀を眺めていた。 ここはかつて誰かと来たことがある。 記憶の底に眠っている大事な思い出を開けてはならないと、もう一人の僕の声が聞こえる。 今日はこの辺で。 この続きは、東京に改めて戻ってきてから考えよう。 せっかくここまで足を延ばしたのだから、大宮八幡宮にも行ってみることにした。 そこに住んでいるときには気が付かないこともある。 ここはパワースポットとして人気があるようだ。 全く知らなかった。 10代後半から20代は目まぐるしく入ってくる刺激的な情報に心踊らされ、目を奪われやすい。 こんなに近くに有名な場所が存在していることにも気が付かなかった。 御利益は厄除けも含まれているようだ。 「何卒、つつがなく過ごせますように」と思いの外、一心不乱に手を合わせていた。 何が待ち受けているのか分からない。 ここでは未来の僕が、おい気を緩めるんじゃないぞとどこかで鼓舞しているように感じる。 良い「気」に満ちたエネルギースポットから何かを受け取っているんだろうか? 「何も心配せずに邁進します」 静かに頭を下げて本殿を後にする。 そして大宮稲荷神社。 ここには都市伝説で有名なちっちゃいおじさんが潜んでいるらしい。 怖いもの見たさでどこかに隠れていないかとしばらく探したけれど目撃することは叶わなかった。 緑が溢れ、歩いているだけで心が浄化されていくようだ。 今日は、出会うべき日ではなかったんだろう。 ずいぶんと影響を受けながらではあるが、機嫌よく歩いていると幸福撫でがえる石が目に飛び込んできた。 自然と手が伸び、撫でていた。 無意識とは恐ろしい。 なんだか目まぐるしく時間が過ぎていったが、慌ただしい東京での半日をそろそろ終える頃合いかも知れない。 先ほど通った時には感じなかった多摩清水社の御神水の方から強い磁場に導かれるように足が進んでいく。 お社に入っていくと御神水が龍口から出ていた。 何か感じる。 何かの音が聞こえる。 静謐なこの異空間の中に閉じ込められたように、遮断された中でも強く耳に入り込んでくるシャッ、シャッというかつて聞いたことのない音。 まるで金縛りにあったかのように、身動き出来ずにいる僕の目の前を物凄いスピードで何かの物体が駆け抜けていった(気がする)。 一瞬、呼吸が止まるかと思った。 意を決してそっと顔を左に向けると、石塚を慌てふためき足を取られるのかツルツル滑りながら逃げ出す精霊がそこにいた。 体長は僕の手の平ぐらいで、服装は父親が着るような紺色のスーツ姿だった。 口を開けたまま動けないでいると、ゆっくり振り返った精霊は今日あったこの数時間のことを見てきたかのようにサムズアップしながら「グッジョブ」と言ってあっという間に消えていた。 あの人が「ちっちゃいおじさん」だった。 僕の不安な波動に共鳴し、今いるこの場所に呼び寄せたのかもしれない。 ほんの数秒の出会いではあったけれど、なんだか体の奥深いところから力が湧いてくるような感じがする。 小さな幸せは、僕らの日常の中に潜んでいる。 ほんの少しの物の見方や考え方を変えるだけで、幸せの種を探し出せるのかもしれない。 柔軟で主体性を持つことは、人生の楽しみを見つけること。 とりあえず今日はこんな感じ。 僕の明日は、もっと面白いことが起きるはず。 ちっちゃいおじさん、僕のほうこそグッジョブ。 今から乗れば、夕方には大阪に戻れそうだ。 ゼロからイチを生み出す力を持つと言われるこの場所は、心の奥深くにしまい込んでいるあの人の影をちらつかせる。 それも、パワースポットの所以であろうか。 神様が存在するのかどうかは今もまだ分からない。 でも今日の事だけを思えば、神様の存在を信じてみたくなる。 いろんなことが手心を加えられたようにスルスルっとうまく運んでいった。 正参道前、一の鳥居には見事な桜が聳え立っている。 ここから始めよう。 ただ、前を向いて。
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