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プロローグ
三浦半島の南に位置する浦白町は、山の緑と海の青に満ち溢れた小さな町である。坂を下ればどこからでも海岸に行き着くことができる。
古くからいる住民には、第一次産業従事者が多いが、移住してきた住民の多くは時間を掛けて毎日都会まで働きに出ている。
そのような住民は、田舎の浦白町に都会の風を無意識に運んでくる。
都会とはいいがたい、かといって、それほど田舎とも言えない。田舎と都会が入り混じる町。そこがまた良いと、観光客には人気のリゾート地でもある。
海に面した山の斜面には、キャベツ畑、トウモロコシ畑、スイカ畑が広がり、近くに有名漁港があり、砂浜には何艘も小型漁船が並んでいる。
のどかな風景で一見平和そうだが、見通しの悪い地形や生い茂る木々によって死角が頻出するがゆえか、道路の至る所に『泥棒・空き巣・痴漢出没注意!』『深夜の一人歩きはやめよう!』『危険を感じたらすぐ110番』など、物騒な警告看板がやたらと設置されている。
鬼怒川亜玖(キヌア)は、それらの看板前を通り過ぎて、二藤舞(ニブ)の家に向かって歩いていた。
都会の大会社で働くニブの父親は、現在海外赴任中。母親は、観光客相手のカフェを駅前で営業している。年の離れたお姉さんが手伝っていて、二人が今日も店にいたことは確認済み。つまり、ニブは、家に一人でいるはずなのである。
「あー、暑い。埃っぽい。本当に不快」
思わず本音が零れ落ちる。
夏の日差しを遮るものが何もない国道。いくら手持ちの扇風機を顔に当てても、なんの効果もない。
横すれすれを大型トラックやスポーツカー、サーフボードを屋根に乗せた4WDなどが、スピードを落とさずに追い抜いていく。
1車線しかない。歩道もまともに整備されていない狭い道。どのドライバーも我が物顔で土埃を上げて走り抜け、歩行者がいようがお構いなし。
普通は命の危機や恐怖を感じるものだが、キヌアは何も感じていない。ただただ、うるさい、暑い、埃臭いの繰り返しにイライラしていた。
蝉時雨に包まれて40分ほど汗だくで山道を歩くと、ようやくニブの家に着いた。
緑に囲まれた白亜の家は、その存在感を周囲に誇示しているように見える。
呼び鈴を押すと、ドアが開いてニブが驚き顔を出した。
キヌアは、さっきまでと真逆のとびっきりな笑顔を作った。背中にリュック、2本のジュースが入った白いコンビニ袋を手に掲げている。
「あれ? 何か約束していたっけ?」
「ううん。サプライズ」
「サプライズ?」
「そうよ。お祝いをしたくてね。驚かそうと思って黙ってきたんだ」
「なんのお祝い? 誕生日はまだ先だけど」
「ほらあ、最近いい事があったじゃない」
キヌアが、肩をポンと叩く。
ニブは戸惑った。心当たりがなくはないが、まさかと思っていた。
「え? 全然、分かんない」
「とぼけなくたっていいわよ。朝居糀君のダンスパートナーに選ばれたでしょ。それをお祝いしたくてね」
「え、ああ、うん……、でもあれは……」
何となく想像したことが当たっても、ニブは、浮かない顔である。
「これは凄いことなんだから。遠慮しないで、ホラ!」
キヌアは、市販のオレンジジュースを差し出した。
暑い中、重たいジュースを土産にやってきたのだから、断る選択肢はない。
それに、キヌアが自分のことのように喜んでくれている。
ニブは、それが思いがけなくて嬉しくなった。
「ありがとう。頂くわ。部屋で一緒に飲もうか」
「そう来なくっちゃ! お邪魔するね!」
キヌアは、当然とばかりにニコニコして上がり込んだ。
通されたニブの部屋は、6畳ほどの洋室で山側にある。海が見えない位置で日当たりも風通しも良くないが、エアコンのお陰で、涼しくて爽やかだ。
「はあー、涼しい」
キヌアは上機嫌になった。
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