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自己紹介
うずくまって泣く彼。私は少ししゃがんで彼を見つめる。少しして落ち着いたのか、彼は我に返ったように立ち上がった。
「す、すいません、すいません」
涙の後を、腕でこする。私たちは何を言ったらいいか分からず、しばらくの間沈黙した。そののち、彼が口を開いた。
「その、なんというか、俺の話を、聞いてくれませんか?」
「も、もちろん」
反射的に、そう声に出した。今だ非現実のような現実に困惑している自分がいる。聞きたいことはたくさんある。彼のこと以外考えるのを忘れるほど、頭の中は疑問でいっぱいだった。
「あ、ありがとう。あの、少しここから離れましょう。ここだとあなたに……」
「あ……」
ここが横断歩道の目の前であることに気づかないでいる自分がいた。通り行く人の何人かは私を見ておかしそうにする。だが半分くらいは無関心そうだった。もちろんここは、会話するようなところじゃない。
「すいません。こっち、ついてきてほしいです」
どこに連れて行くのかはわからない。けど、ついていく、私はそう決心した。彼の悲痛さに寄り添いたいと思ったし、私の疑問を全部解決せずにはいられなかった。
彼はゆっくりとした足取りでどこかへ向かう。その後を私はついていった。街の喧騒は遠くに聞こえるようで、不思議な気持ちになった。ずっと彼の背中を見ていた。
「ここら辺で……」
少しして、彼は高架下で止まった。近くには用水路のようなものもあり、大通りから離れた住宅地近くのようだった。上を電車が通る。だがそれ以外、人の声や雨音からここは幾分離れた場所だった。
「よくこここにいるんです。人もあんま来ないし」
「そうなんですか……」
もちろん彼とは初対面で、そういう点で私は戸惑っていた。
「俺、吉崎広人って言います」
「あ、私、小野日和です」
私の方がたじたじになってしまう。一回深呼吸して、彼と向かい合った。透き通った目が印象的だった。
「あなたはいったい……」
一瞬の間があった。
「……自分でも、よくわからないんです」
そう彼は言った。
「気づいたら、道路の真ん中にいました」
そう言うと、彼は今までの経緯をかみしめるように語り始めた。
彼によると、こうなったのは三か月前。部活帰り、一人で帰っていたところまで記憶があるという。気づくと彼は道路の真ん中に立っていたらしい。不思議がる間もなく車に引かれた。なのに何ともなかった。その時初めて、自分の体に起こった異変を知った。
「自分でも混乱して、訳がわからなくて。誰かに助けてほしい、ただそう思いました」
だけど、大きな声を出しても誰一人反応しない。そもそも道路の真ん中に人がたっているというのに、驚いている素振りをした人がいない。
「誰からも俺のことが見えなくなって、それからずっと、このままです」
「そんな……」
そんなこと、本当にあるんだろうか。だけど実際、彼は目の前でそうなっている。透明になって、誰も彼のことが見えない。彼も、誰のことも触ることができないで、目の前にいるのに気づいてもらえない。
「だけど、小野さんは俺のことが見えてる」
「そうなんですよね……どうしてだろう?」
「……何もわからないです」
再び私たちは沈黙する。私も聞きたいことがあるけど、彼も私に驚いているのだ。私だけが、彼が見えている。私だけが彼の存在を知っている。私だけが、彼に対して何かできることがある。
「そういえば」
私は、まだ知りたいことがあった。
「家族とか、友達とかはどうしているんですか? 警察とかも、捜索とか……」
「……俺は、いつの間にかいないことになってました」
「え?」
彼、吉崎さんがいなくなって、てっきり警察が動いているのかと思った。家族や友達は今も探していて、両方ともかわいそうって。そう思っていた。なのに、事実はもっと残酷らしい。
彼が言った。姿が透明になった後、学校にも、自分の家にも行ったらしい。近くで見ていたい、もしかしたら戻る方法が見つかるかもしれない。最初はそう思った。だけど。
「学校行って、自分の教室行って。……そこに、自分の机がなかったんです。しかも、自分がいた痕跡何もかもなかった」
「どういうこと……」
「自分でも何が何だかわからなくて。しかも自分の家に行った時はなおさらで……知らない家族がいました。俺の部屋はもろとも、俺の家族はそこに住んでいなかった」
どういうことだろう。家族がいない、どこか別のところに住んでいる?彼が……いない世界ということは、彼が生まれなかった世界。その家に、住むこともないのか。
これはあくまで想像だけど、こんな現実あまりにもひどすぎる。私だったら、そう考えると胸にこみあげてくるものがあった。彼は悪夢の中にいる。
「ずっと一人で、何したらいいのかもわからないで、ただ、いました。いろんなところただ歩き回るつもりで行ったけれど、目の前に人がいっぱいいるのに、どんなに普通の人のように装っても、全く孤独感は抜けなかった。自分は今誰からも相手にされないっていう思いが心をきつく縛って、何回も涙が流れました。最近は、なんか惰性みたいに過ごしていました。でも、小野さんに出会って」
彼は私のことを見て、嬉しそうにする。彼にとって、私に会ったことは良かったことなんだろう。そう考えると私の方が、少しだけ気が楽になった。
「すいません。しゃべりすぎっちゃて」
「いや、全然大丈夫」
「何か変わる気がして、ちょっと今明るい気持ちです」
「よかった」
そのあとは少し、他愛のない話をした。ほんとう、何気ないこととか。でも彼は無邪気そうな顔をして、楽しそうに話した。さっき出会った時の彼とは別人で、本当の彼はこっちなんだと思った。彼が嬉しそうな姿を見て、私の方も嬉しくなった。
「……もう、結構暗くなっちゃいましたね」
そう言われ、何気なく空の方を見た。もう日が暮れただろうか。雲で太陽は見えないが、その雲も次第に見えなくなるくらい空は暗くなっている。遠くの方で、ネオンの明かりが際立ち始めている。雨はいつの間にか、だいぶ止んできたみたいだった。
「ごめんなさい。もう時間が……」
「こっちこそごめんなさい。ずっと、誰かと話すことができないままで、結構、しゃべりすぎちゃいました」
「全然、大丈夫ですよ」
「ほんと、楽しかったです。……大体いつも、ここにいます。いつでもいいので、その、また、来てほしいです……」
照れくさそうにそう言う。言われなくても、私だけしか彼を見ることができないのに、断る理由なんてない。それに彼と一緒にいたいという気持ちは、とても大きかった。
「また来ます。……今日の夜は、ここに?」
「そのつもりです。……落ち着くんです。心地がいいっていうわけじゃなくて、冷静になれるから」
「そっか……」
彼が過ごしている様子を想像してみる。いつもここにいるんだろうか。透明だから、どこにでも寝れるはずなのに。そんなことを考える。彼には彼なりの意思があるんだろう。私が彼に何かを言うべきだろうか。そうだとしても、何も思いつかなかった。
彼を背に、私は帰り道へと進む。途中振り返ると、彼は笑顔で手を振った。少しだけ離れただけなのに、すごい遠くにいる気がした。まだ夢の中にいるみたいな気分のまま、私は自宅への道を歩いた。
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