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プロローグ
汐緒はこんなにも多くの菜の花を見たことがなかった。
父に抱き上げられて景色を見ている男の子がいる。年頃は汐緒と同じくらいだろう。
「うわぁ! すごいすごい!」
若葉色の瞳を輝かせて、好奇心の赴くまま「あれは? あれは?」と身を乗りだすようにして訊いている。
「あたしも!」
大好きな父にずっと抱き上げられているのが羨ましくて、汐緒は父の足にしがみつく。
父は男の子を下ろすと汐緒を抱き上げてくれたが、想像していたよりも高かったこともあり、汐緒は泣き出してしまった。
汐緒をあやす仕草をして胸に抱えながら「ごめんな。びっくりしちゃったな」と言って父のタツは、慰めるときにいつもしてくれるように汐緒の額や頬にキスをする。
汐緒は抱きかかえられた状態で父のシャツを掴み、景色を見た。
可憐な黄色い花畑が大きな絨毯のように広がっている。その奥には川が流れていて、川の向こうにも黄色い花畑、畑、木々、町並み。その奥に山々がゆったりと横たわっており、頭の上には東京よりも少し濃い色の空が広がっている。
東京育ちの汐緒には、一面の菜の花も、大きな川も、どっしりとした山も、色の濃い広い空も、全部がとても珍しいものだった。
好奇心旺盛な面もある汐緒は、思わず怖さも忘れて手を伸ばす。
ふと、男の子がタツの足にしがみ付いて何か言っていることに気がついた。
そして、自分たちを見ている母の七海が微笑んでいることにも。
七海の着ている紺色のギンガムチェックのワンピースの裾が風に揺れて────
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