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その後はまるで御伽噺のような事ばかりが起き続けた。
黒い男は影から引き抜くように、どこからともなく闇色の大振りの刃を引き抜いて、あっという間に遠巻きにしていた獣を切り捨てた。ぼとぼとという音とともに、獣の首や胴体の破片が地面に落ちる。
少し離れたところにいた獣がギャンとかキャンとか鳴きながら逃げ去っていくのを何の感情もなく見ていた。
ほんの瞬きの間の出来事だ。
気がつくと、残された私たちの周りに環状に血溜まりができ、異臭が立ちはじめていた。
「さぁ、約束だ」
男はまた、石を渡せと手のひらを上に向けて私に伸ばす。逃げたところで、とてもこの男から逃げきれない。
私は覚悟を決めた。
「……あの、ここでは無理ですから……」
「どこならいいのだ?」
男は小首を傾げて、宙を見る。
これは交渉の余地がありそうだ。
「あなたの住処に匿ってくだされば……」
とにもかくにも今日一日を生き延びよう。私はそのために逃がされたのだ。
私は意外にも文化的なレンガ造りの家に連れてこられた。
このあたりの集落の技術ではない。
もっと王都に近い、財力のある街でしか見られない建物だ。
灯が燈されて、家人の帰りを照らしている。
色のついた珍しい硝子がランプを取り囲んで、飾り彫りから光がもれる。
ガラスなど父が持っていた懐中時計でしか見たことがなかった。
「ご主人、お帰りですか?」
ドアを開けると、中から甲高い声がする。
男はその声には答えず、私を引きずるように部屋の中に連れ込んでいく。
誰かいるのかと声の主を探すが、姿が見えない。
「さぁ、その石をくれ」
黒い男は先ほどと同じように私に向かって手を伸ばす。
死ぬまで少しでも時間を稼ぎたい。
「あの、あなたはどこのどなたなのですか?」
私は震える声で尋ねる。
「さあ」
黒い瞳が艶々と光る。
「助けていただいたお礼も申せません」
「名はない」
「あなたは、パガナーリなのですか?」
「パガナーリ?」
黒い男は小首をかしげる。
長い髪が横になびいて、白い肌がランプの灯りに浮かび上がり、男が整った顔であったことを知る。
しかし仕草はまるで子供のようだ。
「森の外の者は森の魔物をパガナーリと呼びます」
「さぁ、よく知らんな」
嘘をついているようには見えない。
もっとも嘘でも本当でも私には関係のない事だ。
「あなたは髪も目も真っ黒。ナイのよう……」
暗い、暗い夜のよう。
ここでは長雨が降ることも稀だから、星も見えない暗い夜は珍しい。
雨が降る時だって、夜は人が言うほどには暗くない。
稀に訪れる常闇、新月よりも暗い夜の色は畏怖の対象だ。
「石を食べるの?」
「食べはしない」
だとしたら、何がどう伝わって石を食べるなんて言い伝えになったのだろう。
私は目の前の男が祖母の話していたパガナーリに違いないと確信していた。
「猛獣は引き裂いたし、山を駆ける……というよりふわふわと飛び回るようだったわ」
「そうか、外から来る者は皆そんなことを言うな。では、俺のことはナイと呼べばいい。森の外では名が必要だと聞く。お前も名が必要か?」
「私は……もうあるの」
もう私の名前を呼ぶ者はこの世にはいないだろうが。
その現実に少しでも向き合うと、体の端の方から闇の冷たさと同化してしまいそうになる。
「それは、森の外での名前だろう? 新しくつけよう。お前はもう俺のものなのだから」
私の命はこの魔物の掌の上で風前の灯だ。もうすぐ胸をえぐられて死ぬのかもしれない。
いや、きっと死ぬのだろう。
それまでさっき起きたことは忘れていよう。どうせ家族にはあの世ですぐ会えるのだから。
「……そうね。でも、長く生きないものに名前なんかつけても仕方ないわ」
私はきっとナイに殺められる。屠殺する家畜に名を与えるなんて酔狂だ。
ナイは目に被るほどの長い前髪をかきあげて、空を仰ぐ。
部屋の中から何を見ているのか、瞬きを何度かする。
「スーイだ。今日はスーイがよく見える」
外はもう星が出る時間のようだ
「なんでもいいわ」
不思議なことがたくさん起きている。
しかし、ここはパガナーリの森だ。
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